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ダモイ遥かに(その2) [読後感想文]

ダモイ遥かに(その2)


 


過日ある友と、『ラーゲリから愛を込めて』についてラインでやり取りした際、「(貴コメントにある)辺見マリは辺見じゅんの姉妹でしょうか?」と訊かれたので泡を食った。僕の脳味噌は、歌手の辺見マリの方に馴染みがあったらしく、「じゅん」とすべきところを無意識のうちに「マリ」に変換していたようだ。


ことほど左様に、5年前『収容所から来た遺書』を読み、今度また『ダモイ遥かに』を読んで感動したにも拘らず、著者の辺見じゅんについては、その生死も含め何一つ知らぬ僕だった。ウイキペディアを覗いて知る、彼女が11年前に72歳で亡くなっていることを。そして本名を角川眞弓と言い、あの角川書店を創った角川源義(げんよし)の長女ということは書店2代目の春樹及び3代目・歴彦(つぐひこの姉角川歴彦名前最近確か新聞で見たと思ったら、東京オリンピック・パラリンピック汚職疑惑で逮捕された1人だった。


 それはともかく、『ダモイ遥かに』の主人公が、家族への長文の遺書を残して病死する山本幡男(はたお)であることには違いないが、物語の随所に現れる雌の子犬クロは、まるでヒロインのようであ小説冒頭の舞台は、氷に閉ざされたナホトカの港。最後の抑留者1025人を乗せた興安丸が砕氷船に導かれ岸壁を離れた直後、クロが氷の上を駆けて海に跳び込む。それを見た甲板の抑留者が一斉に叫び出すと、船長の玉有勇(たまありいさむ)が停船命令を発し、船員に子犬の救助を命じる。かくして抑留者海を渡ったクロは、その後舞鶴の長木・市議会議員に引き取られ、日本の犬になった


 過ぐるシベリアでの抑留時代、山本幡男がそうであったように、クロもまた日本人抑留者たちの人気者だった。彼らがたまの休日に楽しむ草野球は、「クロ野球」と言われた。高く上がった打球が立入り禁止区域に飛び込むと、クロが鉄条網を潜って球を咥えて戻って来るからである。古くなった外套の綿を固く丸め、糸を幾重にも巻いたものを芯にして作る球は非常な貴重品だった。


 さて、日本の犬になったクロのその後について『ダモイ遥かに』の結びは語る、「それから5年後、クロは一匹の子犬を産んだあと、病気を患って死んだ。クロが産んだのは、雌の犬だった。あるとき、興安丸の船長だった玉有勇は、その話を伝え聞くと、クロの子を引き取った。玉有船長も氷海を泳いで日本人を追いかけてきたクロのことは忘れることができなかったのであった」。


 そう言えば、前稿で記したように、舞鶴到着の翌年の1957年(昭和32年)、大宮に住む山本幡男の留守宅に最初の遺書をもたらしたのは森本研一だったが、彼のそばには黒い犬が侍っていたと著者は書く。クロである。この点ばかりは、しかし、辺見じゅんの筆が滑ったのか、それとも読者に向けたサービスであったと思われる。


 


 このところ東京も凍れる日が続いている。日曜祭日の校庭解放指導員も、平日の学童パトロールも、いずれも戸外限定の稼業なので、老骨にはちときつい。と言っても、贅沢は言えない身、薄いの厚いの6枚ばかりを重ね着て何とか凌ぐ日々。仕事を終え、とわの棲み家のアパートに着き9階の廊下をたどる頃は、ちょうど陽がビルの谷間に沈んだ直後。下の写真の中の二つの高層ビルの間に垣間見えるのは、実は日の本一のフジヤマの欠片。ここへ越して来た半世紀前にはその全身が見えたものを、その頃は連日の深夜帰りで、景色などは視野に入るべくも無かったが・・・・。


2023131日)


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2023131日)


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ダモイ遥かに(その1) [読後感想文]

ダモイ遥かに(その1)

 

 辺見じゅん作ノンフイクション『ダモイ遥かに』。この本、60年来の友人が読み始めたと聞いて、我負けじとでも思ったのか、咄嗟に図書館から借り出して読み始めた。ダモイはロシア語で「ふる里」とか「故国」の意味。今からは68年も昔、ロシア極東のハバロフスク州にある日本人戦犯を収容するラーゲリ(強制労働収容所)で一人の男が病死した。主人公の山本幡男(はたお)である。喉頭癌に罹りダモイった母、妻、子供遺書ノート15頁(4500字)にもわたる長文であった。書いたものは、見つかると没収されるので、仲間の囚人により秘匿され、片手の指では足らぬ数の仲間によって、或いは分担して記憶され、或いは糸巻きの芯にする等の工夫を経て、24か月後の1956年(昭和31年)12月、シベリア抑留者最後の帰還船・興安丸で海を渡り、京都の舞鶴に着く。

 とまあ、さらっと書いたけれど、こんなことは普通あり得ないことである。仮に僕が主人公と仲の良い同囚だったとしても、そんな苦労の片棒を担ぐ気になったはずもない。そこは厳寒のシベリア、碌な食べ物も無い中で打ち続く強制労働の日々が10年も続いている。みんな極限状況のもと必死に生き延びようとしている。なのに何故、他人の遺書なのか?

 その、あり得ないことが起きたのだから、そうせざるを得ないような、とんでもない気持ちを他人に抱かせる何かが山本には有ったのだと思うしかない。すると思い至るのは、ラーゲリの中で句会を主宰し、和歌や俳句を熱心に指導する彼。ダモイに帰る日がきっと来ると、ともすれば落ち込む仲間を励ます彼。民主化運動と称しソ連側に転向した囚人仲間からスターリンや共産主義を礼賛するよう誘われても、頑として拒否し続けた彼・・・・そこに浮かび上がるのは、知的で、優しく、いつも前向きに夢を追い、それでいて志操堅固、男らしいが同時に父性本能を擽るような、多面的な魅力があったとしか思えない。

 著者の辺見じゅんが山本を主人公に『収容所から来た遺書』を初めて世に出したのは、1989年(平成元年)であったが、その頃は未だ取材でシベリアを訪れることは不可能だった。その19年後に上梓された『ダモイ遥かに』の最後の方で著者が語っている、「最初の本の刊行から20年近い歳月がたつが、その間に世界情勢は変わり、実際にシベリアに行くことがかなった。あらためて山本さんをめぐるシベリア物語を書いてみたいと何度も思ったりした」。その間の取材の成果であろう、『ダモイ遥かに』の方では、興安丸が舞鶴に着いた後、遺書がいつ誰によって、いかなる方法で家族に届けられたのかを具体的に記している。それによると、最初に届けたのは森本研一、舞鶴到着後の翌年1957年(昭和32年)に大宮市に住む家族のもとを訪れ、自ら手渡している。以後、遺書は時をおいて更に5人からそれぞれ手渡されるか、郵送で送られる。うち最後の6番目に小包で送られて来た遺書は、山本幡男と同郷の島根県に住む新田礼助からのもの。届いたのは1987年(昭和62年)、それは幡男死して何と33年後のことだった。

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2023128日)


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愛犬クロ物語(ラーゲリより愛を込めて) [読後感想文]

愛犬クロ物語(ラーゲリより愛を込めて)


 


 友に紹介されて観た封切り映画『ラーゲリより愛を込めて』(ジャニーズの二宮和也主演)の感想を投稿した数日後、その友から問い合わせを受けた。曰く、自分も思わず涙を誘われたシーンがあったけれど、愛犬クロが絡んだ部分は原作『収容所から来た遺書(辺見じゅん)』にありましたか?余りにもでき過ぎているので、クロそのものが映画の脚色のようにも思えますが?・・・・言われてみれば、確かにでき過ぎの感はある。強制労働の作業現場で捨て犬と出遭った戦犯の囚人が子犬をこっそりと持ち帰り、ただでさえ不十分な割り当てのパンを分け与えながら囚人達が育てた?ついに帰国の決定が出るや、クロと別れ、ハバロフスクから800キロ(列車で12時間)離れたナホトカ港に着く。そこで乗り込んだ帰還船の興安丸が錨を揚げ出航した直後、真冬の海に跳び込んで後を追うクロ?・・・・。


 いま偶々、別の友の紹介で『ダモイ遥かに』を読んでいた。これは辺見じゅんが『収容所から来た遺書』を著わした19年後、改めて同じ山本幡男(はたおを主人公に世に問うたノンフイクションである。こでも、しかも冒頭からクロが登場、そして終章、ナホトカ港で興安丸に助け揚げられたクロは、最後の抑留者1025人(その中には、2年前に病死した山本幡男の遺書を記憶に刻み込んで運ぶ6人もいた)と共に海を渡り舞鶴に着く。


 映画『ラーゲリより愛を込めて』は、辺見じゅんの2冊(『収容所から来た遺書』、『ダモイ遥かに』)に基づいて制作されているようだ。それにしても、愛犬クロの部分はやっぱり話ができ過ぎていると思い、ネットで検索してみたら、あるわ、あるわ、ハバロフスク収容所での抑留者と黒犬との触れ合いの写真や、氷の海で船員が黒犬を救出する写真やら証言の数々が。例えば、 


(中)心支えた捨てクロ」 : 戦後60年 : 企画・連載 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) (itscom.net)


 


https://ameblo.jp/hayonipiiku-go/entry-12541282761.html


 


ここまで見て来ると、シベリアの日本人抑留者に愛され、最後の帰還船に同乗して舞鶴の土を踏んだ黒犬がいたことは、どうやら否定し難い事実と思わざるを得ない。だからと言ってその犬に、小説と映画が描くような山本幡男との直接の出会いがあったかどうかは分からない。分からないけど、友よ、それ以上の詮索はやめようと思う。


ナホトカからの最後の引き揚げ船・興安丸が京都の舞鶴に着いたのは、1956年(昭和31年)1226日だった。ハバロフスクの収容所でクロと寄り添い合って生きて来た者達も、11年の抑留の末に辿り着いた祖国でどんな人生が始まるのか見当もつかなかったことだろう。クロは舞鶴の長木市議会議員に引き取られ、その地で天寿を全うした。『ダモイ遥かに』の最後の頁は語る、「クロは舞鶴の海の見える丘の地に埋葬された」と。


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2023127日)


 


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大叔父一家の満洲譚(その7) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その7)

 

 満州帰りの、たか(澄一の妻)以下8名が我が家(僕まだ2歳未満)に身を寄せてから1カ月が経った頃であった。満州の根こそぎ動員により関東軍に召集されていた貞夫(澄一の長男、ゆきの夫)が突然目の前に現れたのを見て、11歳の末弟が叫んだ、「あんま(兄貴の方言)、はよう帰っておいでてよかった!どうしないたの?」。貞夫、「(ソ連に捕まって、捕虜を運ぶ)汽車から飛び降りて逃げて来たんやさ」。幸治、「ええっつ、凄いぜな、あんま!」。貞夫、「けど、俺は運がよかったんや。飛び降りたとこが鉄橋のすぐ手前でな、ちょっとでも遅かったら駄目やったし、一緒に逃げた奴は栄養失調やったで、可哀想にな・・・」。

 これで、一族で行方が知れぬのはあと2人、貞夫と同じタイミングで根こそぎ動員に遭った、澄一の長女いとの夫の金二と、次男の喜代治。彼らが相前後して帰って来たのは、その約1年半後、抑留先のソ連からだった。

 今このように書きながら実は、大叔父一家が嘗めた想像を絶する苦難の体験に77年後の今頃やっと気づいた自分自身に呆れている。『ソ連が満州に侵攻した夏』の中で半藤一利が慨嘆している、「昭和205月現在で、開拓団は881団、約27万人であった。実は、日本帰国までのその後の過酷な生活による病没と行方不明者をいれると、開拓団の人々の死亡は78,500人に達するのである。3人強に1人が死んだ。国家から捨て去られた開拓団の満洲での悲惨は戦後も長く、いつまでも続いたことになる」。

 満州の開拓団の悲劇に加えて、同じ頃シベリアに抑留された兵たちもまた悲劇に見舞われた。抑留者575,000人のうち現地で死亡したのが53,000人。1956年の日ソ国交回復以降、政府はソ連、次いでロシアに死亡した抑留者に関する資料(情報)を求め続け、結果32,000人の身元が判明したが、今現在も21,000人が未だに身元不明のまま異国の丘に眠っている。因みに、僕自身月給取り最後の6年は、この抑留者資料の翻訳業務だった。

 以下は、澄一の末っ子の幸治(88歳)が昨年11月に語った言葉である、「哲夫よ、戦争は悲惨や。ソ連軍なんてほんとにひどいもんやった。今のウクライナとの戦争にそっくりや。まだウクライナの方が、食う物、眠る家や車もあるだけ、あの頃のわしらよりましかもしれん。ロシアの兵隊は囚人やら食うに困った連中やというが、昔もおんなじやった。本当に滅茶苦茶むごかった。悪魔以下やった」。

 さて、いつの間にか7回も連載することになった『大叔父一家の満洲譚』を締め括るに当たり、登場人物のうち僕自身が出逢った記憶がある人を数えたら、たか(澄一夫人)、貞夫、ゆき、佐貴子(82歳)の4人(佐貴子以外は、没して久しい)。その4人とも遠い遠い昔に会ったきりだが、目元、口元にどこか共通の雰囲気があった。優しさというか慈愛というのか、何とも言えぬ温かさのようなものだった。だからだろうか、まるで地獄のような脱出行の途中で孤児トシ子を拾い上げ、一年後ついには祖父母のもとへ届けた顛末を読んだとき、驚きが、直ぐに得心に変わったのは。。

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 写真は、我が住むアパート9階からの日没の景色。生まれてから18の歳まで陽は東の山に昇り、西の山に沈んだが、この半世紀は東のビルに昇り西のビルに沈む。思えば遠くへ来たもんだ。

2023122日)


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大叔父一家の満洲譚(その6) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その6)

 

 1945年(昭和20年)8月にソ満国境の開拓村を発った一行が、逃避行の途次、大黒柱の澄一(とういち)(僕の大叔父60歳で死亡)を失いながらもついに佐世保に着いた正確な日付は不明だが、それは1946年(昭和21年)7月下旬であったろう。というのも後で触れるように、一行がふる里の竹原村(岐阜県飛騨地方)に着き、澄一の兄・準一(僕の祖父)の家に辿り着いたのが同年731日だったからである。一行9人中、澄一の妻(たか)、娘(いと、よね、かとり、美雪(14歳))、11歳の末息子(幸治)、長男の貞夫の妻ゆき(28歳)の7名にとっては5年ぶりの祖国であったが、いずれも満州で生まれた佐貴子(ゆきの娘)と孤児トシ子の二人には初めての日本であった。

 いま僕の前に『またおいでよ』というタイトルの一冊の小冊子がある。これは、31年前に他界した父を偲んで作った追悼集。この中で母が、一家が戻って来た日のことを次のように追想している:

母、「あれは眞一(僕の次弟)の生まれた日(昭和21731日)のことやった。眞一を産んで、寝とったらなあ、うちの衆がだあれもおいでんようになった。なんにも音がせんの。どおなってまったかしらん思ってな、まあーず、生まれたばっかやし、だあれもおいでんし、弱ったこっちゃなあ、みんなどおしてしまいないたかしらんって思っとったの。そしたら、暫く経ったら、ガヤガヤガヤガヤ、どえらい音がしだいたで、まったく」。

みき伯母、「サキちゃんに、ゆきマに、かとりサに・・・・」。

母、「十人やったで、十人。そいつで奥出(おくで)(注:奥の客間のことで、父母の寝室の隣にあった)に入りないたやろな、隣やもんで賑わしいって賑わしいって・・・」。

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 かくして、一年にわたる苦難の逃避行の末にやっと故郷に辿り着いた一家は、その日から相当な期間を僕たちと同じ屋根の下で過ごすことになる(一行が到着した日、僕は2歳に満たぬ歳だった)。ところで、母の追想にある十人は、実際には7人であったはずである。というのも、一行9人のうち、ゆき(貞夫の妻)と孤児のトシ子は竹原村最寄りの下呂駅では降りず、ずっと北の富山県寄りにある飛騨古川に向かったからである。古川では先ずトシ子の父方の祖父母を訪ね事情を話したけれど、引き取れないとすげなく断られ、次に母方を訪ねると、「よう連れ帰っておくれた」と泣いて喜ばれた。ゆきはその晩その家に泊まり、今までのことを縷々語る間、その場のみんなは大泣きに泣いていたという。

 という次第だから、ゆきは1日遅れで僕んちのみんなに合流したことになる。それでも一族の数はまだ8人。この時点では、根こそぎ動員で持っていかれた長男・貞夫(29歳)、喜代治(次男)の兄弟と、長女いとの夫・金二の行方は杳として知れない。

 なお、先に触れた父の追悼集『またおいでよ』の中に、「懐かしい人々」と題する母の聞き書きがあるが、その中で、逃避行の途中客死した澄一についてこんなことを書いている:

澄一叔父様

私の嫁入りした時はすでに満州に渡ってみえて、引き揚げの途中で亡くなられ、ついに逢うこともなかった叔父様は、話に聞くと、大変な美男子だったそうです。若い頃は歌にまで唄われて、女衆に騒がれたもんやと、これはむら叔母さんから聞きました。字もとても上手で、仕事も丁寧でいて素早く、田植えのとき、一寸でも曲がるとひどく叱られたと、これはみき姉さんから聞きました。満州から引き揚げて来るとき、女子ども大ぜいを引き連れてきて、責任感の強い叔父様が無理をなさったのがもとで病気になられ、向こうで亡くなられたとか、残念なことでした。

2023121日)


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大叔父一家の満洲譚(その5) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その5

 

 大叔父・澄一(とういち)一家に孤児トシ子が加わった10人は文字通りの難民となって、ひたすら南へ向かって歩く。満州は広大だ、ちょうど日独伊三国が同盟したよな広さがある。そこを北の端から南の端まで歩こうというのだから大ごとだ。きっと野宿の連続だったに違いない。発ったのが8月半ばの暖かい季節だったが、満州国の首都であった新京(現・長春)に近付く頃には冬に差し掛かっていたのだろう(ネットで調べると、長春の冬は11月~2。最も寒い1月は―10°~―19℃)。一行は新京に入ると、厳寒の2カ月の間だけ家を借り、なんとか商売をして食いつなごうとする。極度の食糧不足でガリガリに痩せこけた体は、それでも容赦のないシラミに(たか)られた。当時11歳の末っ子の幸治は、そのとき食べたジャガイモの味が忘れられない。それは、中国人が収穫を終えた畑を父・澄一が更に掘り返して、見つけ出してきたジャガイモだった。

 しかし、その澄一が寒さと過労で倒れたと思ったら、あっという間に亡くなってしまう。1945215日のことだった。町の人の手を借りて、カチンカチンに凍った土をなんとか掘って遺骸を埋葬すると、中国人がやって来て、「ここに空港ができるから、それだと浅すぎる」と言うので、苦労して更に2メートル程掘り下げて埋葬し直した。幸治は云う、「哲夫よ、親父は今も長春の滑走路の下で眠っとるぞ」。

 澄一を欠き文字通り女子供ばかりとなった一行(9人中、男は幸治一人)だが、故国はなお遥かに遠く、更に南に向かって歩を進めた。あるとき滔々と流れる大河にぶち当たり、見渡す限り橋もないので、途方に暮れ、この時ばかりは年配の者の胸に、みんなで自決、と言う言葉が浮かびかけた。そして誰ともなく、もうちょっと頑張ってみようかと励まし合って更に南へ歩いて行ったら、ついに橋を見付けたのだった。

(弊注:19465月、日本を占領した米国と中華民国の国民党の間で在満邦人の日本への送還協定が結ばれた結果、渤海に面する遼寧州の錦西(現在の葫蘆島(ころとう)邦人引き揚事業スタート)。大黒柱澄一ったはいえ妻「か」以下9人は揃って錦西に辿り着き、引き揚げ船「遠州丸」で佐世保に運ばれたのだった。

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 閑話休題: 以前の投稿で、童謡「ちいさい秋みつけた」のハゼノキの長い秋について紹介したことがあるが、ウルシの秋もまた負けず劣らずに長い。写真のウルシを撮ったのは、最初は昨年10月、次は12月、最後は今年の正月明け。2カ月以上を経て、なお一片(ひとひら)ない

2023119日)


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大叔父一家の満洲譚(その4) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その4

 

 今は昔の19458月のある日、ソ連軍の突然の侵攻に吃驚した老人・女子供ばかりの澄一(とういち以下9人は、飼っていた白馬「花車」を始め豚、牛、鶏に最後の餌をふるまうと、一路南を目指して逃走の旅に出た。ソ満国境の開拓村を出て、先ずは最寄りの鶴岡(ほーかん)(黒竜江省東部の鉱業都市)目指

  (『ソ連が満州に侵攻した夏』は云う、「頼みの軍はさっさと後退し、その上に県公署、警察なども急速に機能を失った。放り出された一般居留民や開拓農民の予期されていた悲惨は、いよいよ現実化していく。鉄道や自動車を利用することのできた一部の軍人家族や官吏家族なんかとは違って、かれらは自分の足を唯一の頼りに歩くほかはない。そのあとを急速な、ソ連軍機甲部隊が追撃してくるのである、しかも、すでに記したように、屈強のものたちはすべて根こそぎ動員で奪われている。(中略)辺境の居留民はソ連参戦の報さえ知らされていなかった。ほんとうに国にも軍にも見棄てられたのである」。)

その旅について遥か後年、戦後5年目にこの世に生を受けた、僕のまたいとこの哲夫君が、逃避行の当時11歳であった叔父の幸治が語るのを聞いたことがある:

 哲夫よ、真っ先に逃げたのは兵隊とその家族、役人一家、町民の順で、最後が開拓民やった。そんとき俺は父ちゃん(澄一)に手を引かれて、無数の焼夷弾が降る中を走った。『父ちゃん、眠たいよう』と弱音を吐くと、こんなとこで寝たら死んでまう、と言われた。頭や腕や足が千切れた死体を踏んで泣きながら走った。母ちゃんやゆき姉さん(貞夫の妻)、かとり姉さん、佐貴子(貞夫の長女、当時5歳)も(しらみ)だらけ、それでもソ連の兵隊に遭うと大変やから髪を丸坊主に切って男装しとった。顔は泥で真っ黒け、服はボロボロ、みんなガリガリに痩せこけたままった。

 逃げる途中でゆき姉さんが、銃弾に倒れ息絶えた男女のそばで泣きじゃくる女の子を見た。偶然にもそれは同じ開拓団に暮らしていた飛騨古川出身の家族で、生き残った娘は佐貴子と同い年のトシ子だった。ゆき姉さんは躊躇いもせず「一緒に日本へ帰ろう」と手を取って、佐貴子とトシ子を両脇に抱えながら、焼夷弾が降り銃弾が掠める中を必死に駆けた。

 (『ソ連が満州に侵攻した夏』いわく、「忘れてならないのは、国境付近より脱出行をつづけている居留民や開拓団のことであろう。(中略)そのかれらをソ連軍が急追してくる。さらに現地人が仕返しの意味もふくめて匪賊のごとく襲いはじめた。(中略)また、幼い子供をつれて歩いているものには、中国人が『子供をくれ、子をおいてゆけ』とうるさくつきまとい、ついには、『女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ。それでどうだ』と値段をつけてまでして、執拗そのものであった。(中略)それにしても、こうした逃避行において、もっとも悲惨であったのは、その誕生にもその生活の選択にも、いささかも責任のない子供たちであったことだけはたしかなのである。いまも残留孤児の報を聞くたびに、その思いを深くする。事実は、子供たちの多くは野垂れ死にしなければならなかったのである。生命を救われたのはそれでもまだましであったのである。そして疲れはて追いつめられ絶望的になった開拓団の集団自決が、820日を過ぎたころよりいたるところではじまった」。)

鶴岡(ほーかん)佳木斯(ちゃむす)の駅前に辿り着いた時やった。一頭の白馬が目の前に忽然と現れたのを見て、、「あないか?っぱや!」。何とそれは、兄貴(貞夫)が手塩にかけて育て上げた花車だった。何日最後の餌をって抱きついて大泣ら、った注:花車つい以上言及ないが、再会しい別離ったである)。

(脚注:トシ子を加え10人となった一行は佳木斯から更に南下を続け、ジンファ(綏化?)を経て満州国の首都の新京(現在の長春)を目指す。数カ月にわたる野宿の連続であったと思われる。占領下の日本がどんな様子か見当もつかないが、向かうところは遥か彼方の祖国しかないのだった)。

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真冬の今、目につく花は山茶花ぐらいと思ったが、道端の草叢をよくよく見れば黄色い花が咲いていた。スマホのレンズの判定によると、大黄花(おおきばな)カタバミと言しい外来雑草った

2023118日)


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大叔父一家の満洲譚(その3) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その3)

 

 大叔父一家が新天地を求め満州に渡った昭和15年(1940年)は、3年前に始まった日中戦争が泥沼化する中、日独伊3国同盟が締結された年である。その翌年の昭和16年(1941年)に日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発し、その先にとてつもない奈落が待っていようとは、一家は勿論、送り出す村人の誰一人にも予想のつかぬことだった。

 満洲に到着した澄一(とういち55歳)一家は、三つの家族に別れて入植する。澄一夫婦と子供5人、長男・貞夫(24歳)夫婦(妻ゆきマは長女を身籠っていた)、そして長女いととその夫の11人だった。前稿で触れたように、入植後貞夫夫婦に生まれた娘3人のうち2人を栄養失調で失う等、様々な試練を乗り越えて苦節5年、まさにこれからという時、故国日本に敗色が迫る中、ここ満州では1945710日、1845歳の居留男性邦人15万人に根こそぎ動員令がかかり、澄一・一族も29歳の貞夫以下3人を兵にとられてしまった。『ソ連が満州に侵攻した夏(半藤一利)』は云う、「根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が十万人はいた。新京(満州国の首都、現在の長春)では、ガリ版刷りの召集令状に、『各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶二本を携行すべし』とあった。出刃包丁は棒にしばって槍とし、ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり戦車体当たり用の火炎瓶である」。

 後に残ったのは、入植直後に生まれ5歳になる貞夫の娘を含めて総勢9人。しかし働き盛りの男手を失った彼らが、農作業や家畜の世話に苦労した日数は僅かであったろう。ものの1カ月も経たぬ89日に、突如ソ連軍がソ満国境を越えて攻め込んで来たのだから(日本では、その直前の86日広島に、89日長崎に原爆が投下されている)。一家は、王道楽土とは名ばかりの辺境の地で、それでも懸命に働いて築き上げたすべてを捨てて、ただ南へ、南へと徒歩で逃げるしか術はなかった。入植地を離れたのが8月中旬として、ふる里の竹原村に辿り着いたのが翌昭和21年の731日だから、実に一年近くも逃亡・生還の旅を続けたことになる。

 またいとこの哲夫君(貞マの次男)が、この時11歳だった叔父の幸治からこの旅の様子を聞いたことがあった。それについては次稿に譲りたい。

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 この冬東京も寒い日が続いているけれど、去年と違ってまだ雪を見ない。写真は、いつもの散歩コースの隅田川畔。一糸纏わぬ桜並木が寒々と、ただ黒々と並ぶ中、雀はどこへ行ったのか?

2023117日)


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大叔父(おおおじ)一家の満州譚(その2) [忘れ得ぬ人々]

大叔父(おおおじ)一家の満州譚(その2)

 

 78年前に僕が生まれたのは、飛騨山中の狭い盆地にある竹原村の田圃の中の一軒家。なのに周りの田圃はすべて他人の物、有るのは桑畑に野菜畑、それに僅かばかりの山林だった。それを奇妙とも思わぬままに成人し、田圃が昔は全部自分ちの物だったのを知ったのは、ずいぶん後のことだった。本家の負債を連帯保証していたために、1929年(昭和4年)の世界恐慌に続く昭和恐慌により300年続いた近郷随一の名家だった本家が破産すると、それに伴って分家も多くの資産を失ったためだった。

 祖父・準一の弟・澄一(とういち(貞夫の父、哲夫の祖父)が構えていたもう一つの分家11人の大所帯であったにも拘らずすべてを畳んで満州に渡ったのは、本家の破産に伴う生産手段の喪失にあったものと思われる。折しも「ソ連が満州に侵攻した夏(半藤一利)」によれば、『明治末から対満移民政策がとられ、多くの日本人が海を越えて渡満した。(中略)昭和11年(1936年)に広田弘毅内閣が国策として決定した二十カ年百万戸移民計画によって、この傾向はいっそう強まった』。

 かくして一家は1940年(昭和15年)満州の地を踏み、愛知、三重、岐阜3県が合同して三江省鶴立県(現・黒竜江省湯原県東部)に設けた東海村開拓団に入植したが、当初は苦難の連続だった。というのもソ満国境に近いそこは、匪賊の巣と呼ばれるほどに治安も悪い僻地で、栄養失調による多数の犠牲者が出た。澄一家では息子の貞マ・ゆきマの夫婦に長女に続き次女、三女が生まれたが、長女以外は栄養失調で亡くなっている。

 しかしそんな中でも、一家の大黒柱の澄一(当時50代後半)も長男の貞マ(当時20代後半)も共に必死になって頑張ったらしい。ずっと後年のことであるが、前稿で触れた僕のまたいとこの哲夫君は、当時満州で一緒だった叔父の幸治(貞マの年の離れた弟、当時10歳未満)より次のように聞いている、「あんま(兄の方言)は本当に凄かった。父ちゃん(澄一)もあんまも要領がよくて、他より数段大きな農場にして、見渡す限りトウモロコシ畑が広がっていた。2千頭以上の豚と牛を飼い、豚の大きさときたら日本の豚の二倍もあった」。

 哲夫君はまた、母のゆきマから次のような話しを聞いたことがあった、「その頃開拓村には国からいろんな支援があって、(うち)には北海道から馬が贈られて来た。でかいでかい白馬で、名前は花車。(とう)ちゃん(夫・貞夫のこと)は160センチもないやろ、そんで世話するのにミカン箱が要るような立派な馬やった。ある時、花車が言うことを聞かず父ちゃんの腕を噛んだもんで、父ちゃんは怒って角棒で何遍も叩きないた。可哀想やで、もうやめないヨ、と言っても、聞かなんだ。舐められたらあかん、最初が大事や、徹底的にやらなあかん、って、その後も父ちゃんは花車に朝まで付き添って、ずっと言い聞かせた。すると次の日、花車は別の馬になっとった。花車も凄いけど、父ちゃんはもっと凄かった」。

 後年、働き盛りの貞マ以下3人が根こそぎ動員で抜けた後、残された60歳の澄一と女子供が突然侵攻して来たソ連軍を逃れて南下の途中、佳木斯(チャムス)目の前ろう花車った

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2023115日)


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大叔父(おおおじ)一家の満州譚(その1) [忘れ得ぬ人々]

大叔父(おおおじ)一家満州譚(その1

 

 昨年11月投稿の『抑留記と脱走兵』の中で、子供の頃いとこ伯父の貞マ(貞夫の敬称、ふる里の方言)から聞いた、シベリアに向かう列車から飛び降りた脱走劇について紹介したが、このことを故・貞マの子供(僕のまたいとこ)に報告したいと思い、とある心当たりに相談したところ、数日後に受け取ったメールは貞マの次男坊・哲夫君(僕より6歳若い)からだった。ブログを読んで、懐かしさに涙したという。以来何度かのメールのやり取りの中で、満州に雄飛したはずの貞マ一家、というよりその父親・澄一(とういち一家った全体像はあといっても、哲夫君自身一家帰国後4年目のことなので、すべては又聞きの世界である。ではあるが、次稿以降数回に分け、この場を借りておのれ自身の(えにし)たいなお、時代場所稿取り上ソ連満州侵攻半藤一利)所々同書引用たい

 写真は、正月明けの名主の滝公園(東京都北区王子)。モミジも銀杏もすべての葉を打ち落としてスッポンポンの丸裸。池辺には寒空の下、甲羅を干すいつもの亀どもは姿無く、ひとり羽毛に(くる)マガモそう水面てい

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2023114日)


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