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百万本のバラ [忘れ得ぬ人々]

百万本のバラ


 


 先日ある友人からロシアのYouTubeのサイトを紹介された。何かと思えば、ロシアの女性ポップスターのアーラ・プガチョワに関するニュースサイトだった。この人の名前を目にするのは実に久し振りである、もしかしたら2030年ぶりかも。するとあるメロディーが口を突いて出た。「ジール・ブイル・フドージニク・アディーン(一人の画家が住んでいた)」・・・『百万本のバラ』の出だしだった。


 アーラ・プガチョワはソ連とロシアで最も有名な歌手であり、僕がモスクワに住んでいた1980年代に世に出た百万本のバラは一世を風靡した彼女の代表作である。僕自身、メロディーも声も歌詞もとても気に入って、酒が入るとつい口ずさんだ。歌は、その後日本でも加藤登紀子が歌って、人気を博した。


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 ずぼらな僕はしかしロシアを離れたとたん、彼女もバラも思い出さぬまま何年も、いや何十年も時を過ごした。そして今回友に紹介されたサイトを見て、まるで狐に包まれた。去る8月に二人の子供を連れてイスラエルからロシアに帰国したプガチョワが自身のインスタグラムで、『私もスパイだと、呼ばば呼べ』と訴えたというのだ。一体どういうことだ?ショックだった。以前はあんなに好きだった歌手だったのに、実は何にも知らなんだのだ。慌てて調べた末に把握できたのは、おおよそ次のようなことだった:


1949年生まれの73歳。ソ連時代は歌手最高位のソ連人民芸術家の称号を得る。ロシアになって2009年、60歳の歌手引退時にはメドベージェフ大統領から祖国功労勲章を授与される。2011年、27歳年下のコメディアン兼TV司会者マクシム・ガルキン(ユダヤ人)と結婚。代理妻を使って子供2人を持つ。2014年、プーチン大統領から祖国功労章を授与される〕。


 そして今年224日ソ連がウクライナに侵攻すると、かねて侵攻反対の夫と共にイスラエルへ出国したが、夫を残し子供と帰国。9月、当局が夫にスパイのレッテルを貼ったため、「私もスパイと呼べばいい」と、開き直ったのだった。 


 YouTubeで久し振りに歌を聴いた。すると懐かしいメロディーと声がいきなり全身を貫いた。百万本のバラは、やっぱりかけがいもない歌、 プーチンの戦争とは余りにもかけ離れた世界なのだった。


(185) 百万本のバラ / アーラ・プガチョワ - YouTube 


2022930日)



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コールダー・ウオー(その3) [読後感想文]

コールダー・ウオー(その3

 

米国とロシアは石油と天然ガスという重要資源の生産に於いていずれも世界のトップクラスであり、従って「コールダー・ウオー」はこのエネルギー資源を巡る米露両国間のせめぎ合いについても言及、わけても天然ガスについては輸出量に於いてロシアが断トツなだけに、その輸出用パイプラインに関するプーチンの戦略について多くの紙面を割いている。

古い話になるが、ロシアの、いやソ連の天然ガス輸出パイプラインには尽きぬ個人的な思い出がある。もう半世紀も前の1975年モスクワに赴任したその年に、日本はソ連から大量かつ世界最大口径(外径1.4メーター)のパイプを受注した。それはロシアからウクライナを経て東欧諸国に至る最初のガスパイプライン敷設のための大径鋼管であった。以来毎年大量の大径管が日本からソ連に輸出され、1988年にはついに1000万トンを突破するに至ったが(同年5月東京に於いてソ連向け大径鋼管1000万トン達成記念祝典を開催)、取引はソ連の崩壊とともに自然消滅した。

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僕の記憶はそこで途切れるが、「コールダー・ウオー」が描くソ連崩壊後のロシアのヨーロッパ向けガスパイプライン状況は一変する。ウクライナを通るパイプラインの通過料やウクライナがロシアに支払うべきガス料金を巡り、両国は何度も喧嘩、挙句の果てウクライナはあからさまな盗ガスまで始めたという。このためウクライナを通るガスが年々減少する中、ロシアはウクライナを迂回するルートを模索、一つはロシアからドイツまでバルト海を経由する海底パイプライン2本(ノルドストリーム1、ノルドストリーム2)、今一つは黒海からトルコまでの海底パイプライン(サウスストリーム)で、これらすべてが既に敷設済みというから驚いた(サウスストリーム2は未稼働)。浦島太郎たあ、僕のことだった。

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写真は、今日の隅田河畔で出遭った精霊蝗虫 (しょうりょうばった)

2022928日)


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コールダー・ウオー(その2) [読後感想文]

コールダー・ウオー(その2

 

 知らぬは我のみか?著者マリン・カツサによれば、アメリカが世界で勝手気儘な行動ができる要因の一つはペトロダラーシステムにあるという。このシステムは半世紀近く前の1974年、ニクソン、キッシンジャー時代のアメリカがサウジアラビアと石油代金決済を米ドル建てで行うことに合意し、OPECがこれに追随したことで確立し今に至る。このシステムにより世界の金融がアメリカに牛耳られているのをかわすために、プーチンのロシアは原油・天然ガス等の決済を米ドル以外の方法に切り替えることを模索している(同じ理由で習近平もまた、人民元建て決済を画策中)。

 同書に於いて米ロ間の激しいエネルギー戦略のせめぎ合いも紹介されている。中近東については国別に状況が分析されており、いずれの国も勉強になったが、特にイスラエルについては「おやっ?」と思ったことが二つある。一つは、イスラエルはてっきり石油もガスもない砂漠の中の資源小国だと思い込んでいたのだが(現にこの本でも、かってネタニャフ元首相が自虐的に「モーゼはイスラエルの民を中東で唯一石油の出ない国に導いた」と語ったことが紹介されている)、2000年になってあにはからんや、イスラエルの沖合に膨大な埋蔵量のガス田が発見され、2004年には既に商業生産が始まっているんだと。知らぬは我ばかりか知らねども、いやあびっくりこいた。

 驚いた二つ目、それはイスラエルはてっきりアメリカの同盟国だと信じていたのに、この本によると、ロシアとの結びつきも物凄く強いらしい。プーチンはイスラエルを「ロシア語の国」と呼んだそうだが、実際人口の半分がロシア東欧からの移民とその子孫で、全体の20%が今でもロシア語を話すらしい。

 突然思い出した。あれは確か30年ほど前、商社に勤めていた僕はソ連のとある政府機関の訪日代表団を世話することになり、ある日偶々団員の一人をサウナに案内することがあった。スチームが充満する中で彼が問いかけた、亡命したいがどうしたらよいかと。元来が鈍い僕は淡々と反応、いやあ日本ではちょっと無理でしょうと。そして数年後に耳にした、欧州のとある国に出張した彼がイスラエルに亡命したと。彼はユダヤ人だった。

 

 心肺ともに基礎疾患を抱える我、マスク着用は余りに息苦しいため普段は外し、人様に接近する都度慌てて被る。そんな生活がもう二年半、だから一期一会の相方も随分と変わったもんだ。写真の相手は女郎蜘蛛。7月初めの出遭いだったが、丁度糸を吐き出す瞬間を(お情けで)見せて頂いた。

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2022926日)


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コ-ルダー・ウオー(その1) [読後感想文]

コ-ルダー・ウオー(マリン・カツサ著)


 


 このところ本を読むたびうろたえる。あと僅かで78歳を超えるのに、これまで一体何を学んでいたのかと。今度の本もそうだった。「コールダー・ウオー」?最初は意味が分からなかった。より冷たい戦争って何なんだ?著者のマリン・カツサとは何者だ?・・・読むにつれ分かって来た。マリン・カツサはカナダのエネルギー関係の専門家、コールダー・ウオーとはどうやら彼が創った造語で、ロシアのプーチンが欧米相手に仕掛けた超冷戦のことだということが。


 この本が書かれたのは2014年、即ち今を去る8年も前、なのに著者はこの本でそれまでの20年にわたる世界の政治経済、特にエネルギー分野における確執を分析、結果としてプーチンに米欧にうち勝とうとの遠大な構想があることを予告、返す刀で米国による余りにも恣意的な行動(ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争等々)に対し警告を発している。それかあらぬか発刊当時、米国のベストセラーにまでなったという。


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 文中出遭う出来事の大半は我れ知らぬことばかり。その一つは例えば、プーチンは極貧の家に育った。何しろ19平方メートル一部屋に家族6人が住んだらしい。プーチンの祖父は料理人で、その料理は悪名高い怪僧ラスプーチンの口にも上り、気に入られたという(もしかして名前が似ていたせいもあったのか)。


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 2週間ほど前、日課の散歩の道筋でイチョウの木に実が生っていた。根本の草叢にも落ちた実がいくつか転がっている。生まれたての銀杏ぎんなんとの出遭いは生まれて初めてのことだった。新鮮な黄色がまるで心に沁みるようだった。


 


2022925日)


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秋立ちぬ [巷のいのち]

秋立ちぬ

 

 アパートの木立ちから蝉の声が消えた日、玄関ホールを出たとたん、草地の中から萌え出たような赤と白が目に入った。彼岸花、別名曼殊沙華だと気付いたが、早くも雄しべ雌しべを四囲にいっぱい突き出している。秋が、土の中から突然湧きだしたのだ。

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 街を抜けて墨田川の土手を上る。川べりの木立ちにやはり蝉の声は無い。時々耳に届くキキキキというようなか細い声は秋の虫。河畔のベンチに座ろうとして傍の木の枝に虫のようなものが見えたので近付くと、それはセミの抜け殻だった。それも一つの葉っぱに2匹も三匹もしがみ付いている。主はとっくに恋歌を歌い尽き往生したはずなのに、空蝉は今もなお夢を追うのか。

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 わが友よ、秋立ちぬ。いざ生きめやも(?)。

2022921日)


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正義の戦争は嘘だらけ(渡辺忽樹/福井義髙) [読後感想文]

正義の戦争は嘘だらけ(渡辺忽樹/福井義髙)

 

 ウクライナの戦争に関するあるテレビ番組で、コメンテーターの二人が揃いも揃って妙なことを言うので、思わず首を傾げた。プーチン(ロシア)が悪者でゼレンスキー(ウクライナ)が正義の味方だと単純に思い込むのは危険だと、繰り返し主張するのだ。強い違和感を覚えた。何故なら、ここ半年以上ロシアの砲弾に破壊されたウクライナの街を見続けて来たし、メディアはこぞってブチャ等におけるロシアの残虐行為を報道して来たからだ。

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 何とも割り切れない思いのまま、番組で紹介していたコメンテーター二人の対談集「正義の戦争は嘘だらけ(渡辺忽樹/福井義髙)」を図書館から借り出して読み始めた時は、二人はもしかして今どき珍しい親プーチン(ロシア)派の学者ではないかと疑っていた。だが、読むにつれ、とんだ誤解だったことを思い知る。それはともかく、著者たちの次のような見解には目を剥いた:

♢ウクライナ戦争の影の(真の)仕掛け人はアメリカのネオコン(極右勢力)で、ゼレンスキーは意のままに操られているに過ぎない。

♢ブチャにおける民間人虐殺等に関する日米欧の報道は、プロパガンダの可能性が強い。

♢欧米が報道するプーチンはまるでスターリンの再来だが、プーチンは極めて合理的な人間である。

♢プーチンがウクライナ侵攻の口実とした「ウクライナ東部のロシア系住民に対する迫害」は実際に存在した。

上記のような見解は、日々見聞きする報道や見慣れた識者の見解とは真逆ゆえ俄かには信じ難いが、著者たちはスペイン内戦から二つの大戦を経て今に至る近現代の戦争史を踏まえ(日本がアメリカのフランクリン・ルーズベルトに戦争を仕掛けられたことも含め)、警鐘を鳴らしている。この人生、残り時間こそ少なけれ、今暫し老眼凝らし見詰めてみようか、天下の情勢を。

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いつの間にか晩夏も過ぎ、あんなに(かまびす)しかった蝉の恋歌がぴたり止まった。今日、いつもの散歩路の草叢に小さな朝顔を見付けた。とても可憐な花だった。

2022917日)


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続・竹馬の友 [忘れ得ぬ人々]

続・竹馬の友

 

 ここに1枚の写真がある。場所は岐阜県高山市の宮川に架かる中橋のたもと、写るは小学校で共に学んだ同級生たち、時は13年前の春、ふる里の下呂温泉に泊まり込んで交歓を尽くした翌朝のこと。右端に立つ白髪が従兄弟の洋久君。彼とは青春時代に会ったきりだったから、これがなんと40年ぶりの出会いだった。

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 この日の昼過ぎクラス会の解散後、洋久君と二人ふる里の村の老人ホームを訪れ。ショートステイしていた母(当時88歳)の部屋に入ると、母が喜んだのなんの。半世紀近く会っていなったから無理もないが、思い出話しが次から次へとび出した。あの時の母の顔の輝きが今も目に浮かぶようだ。

 老人ホームから歩いてすぐの所に洋久君の長兄の家があって(洋久君は5人兄弟姉妹の末っ子)、彼はそこに泊まる予定だったが、誘われた僕も二つ返事で快諾。すると、滅多には会えない末弟が沖縄から出て来たというので、他の3人の兄弟姉妹もやって来て、5人揃い踏みの宴が始まった。そこに紛れ込んだ僕など今にして思えば図々しい限りだが、その時はいとこはやっぱりいいなあと独り言ち、ただ美酒に酔い痴れたものだった。

 洋久君とはそれから3年後、もう一度だけ会っている。所用で東京に出て来た彼と一夜を二人で呑んだ。新橋の確か鳥藤という居酒屋だった。閉店近くまで、いろんなことを話しながら、差しつ差されつしこたま呑んだ。翌日彼から電話があった。呑み過ぎて、何を話したか覚えていないと言う。安心した、それはこっちも同じだったから。今からは10年前、ということは一昔前のことだった。

2022913日)


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門田隆将の世界(この命、義に捧ぐ) [読後感想文]

門田隆将の世界(この命、義に捧ぐ)


 


ノンフィクション『この命、義に捧ぐ』(門田隆将)を読んで、本当にこんな人がいたのかとびっくらこいた。1945年の終戦時満州の駐蒙軍司令官だった根本博・中将のことである。終戦時の満州では天皇の終戦の詔勅に従い、侵攻してきたソ連軍を前にして関東軍が武装を解除、ために在留邦人は掠奪、強姦等の苦難に遭い、60万人の兵がシベリアに抑留された、と思い込んでいた。だが、それは必ずしも正しくはなかった。根本が指揮する内蒙古・新疆の兵に限っては武装解除に応じず、ソ連軍に徹底抗戦、結果(昨日の敵であった蒋介石の国府軍の理解もあって)内蒙古の在留邦人4万人と35万人の兵を無事帰国させることができた。それは第1に根本が、ソ連軍の暴虐な本質と危険性を知悉していたこと、第2にそんなソ連軍から邦人と部下を守り抜くことこそが、最も重要な使命だと信じていたせいだった(77年前の日本を思う時、それってとんでもない発想ではあるまいか?)。


それよりもっと驚いたのは、終戦4年後の彼の行動である。終戦時に国府軍(蒋介石)から受けた恩に報いるために1949年、GHQ占領下の日本から台湾に密航し、国府軍の対共産軍戦争に加担。その時は国府軍が共産軍に連戦連敗、本土から台湾に逃げ込んだ頃で、余勢を駆った共産軍は台湾の離島「金門島」にまで上陸して来た。ここで採られたのが根本が提案した対抗作戦で、結果、共産軍の上陸兵は殲滅され、以来中国と台湾は睨み合ったまま今日に至る。


今、ロシアによるウクライナ侵攻を契機に中国による台湾進攻の懸念が喧伝され始めている。だが、もし根本一人がなかりせば、台湾は70年以上も前に中国に組み込まれた可能性が高く、さすれば今さら台湾有事は日米の有事と騒ぐこともなかっだろう。


なあ友よ、根本博って凄くない?いかにノンフィクションとはいえ本は本だから、多少の誇張や修飾はあるだろう。しかしもし仮に『この命、義に捧ぐ』がすべて夢だとしても、門田隆将に文句は言えない。だってこんなに素晴らしい夢を見さしてもらえたのだから。


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2022910日)

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竹馬の友 [忘れ得ぬ人々]

竹馬の友

 

 818日、その日は昨年末旅立った母の、月命日だった。着信音に気付きスマホを開くと珍しい人の名が目に入った。「ハンメさん?」と、遠い昔の綽名で呼びかけるのは、沖縄に住む洋久君の声。「あんなあ、叔母さんが亡うなったこと全く知らなんだわ。誰も教えてくれんもんで、えらい失礼をしてまった」と言って絶句したあと、子供の頃母にはよく世話になったことや、母が作った味噌汁の味が忘れられなんだ、といったことを縷々語る。僕の方からは、長引くパンデマイムのため遠方の人には敢えて声を掛けなかった事情を説明しながら、それでも102歳は大往生だったと伝えた。

 彼はいとこである。いとこ20人の中、彼は同じ村で家も近く、おまけに同い年だから、小学校から高校までずっと同級生だった。互いの家に遊びに行って泊ったことも度々、また農作業の親戚付き合いで一緒に苗を植えたり、稲を刈ったこともある。あるとき、そんな百姓の手伝い仕事が済んで、二人小川の岸辺に立ってオシッコの飛ばしっこをしてたら、思わず力み過ぎ肝心な所を激痛が襲った!・・・。そのあとどうしたのか、はっきりした記憶は残っていない(誰かにリヤカーで医者に運んでもらった、ような気もするが)。

 高校を卒業した18歳から、二人の道は遠く、遠くへと離れて行く。大学を出て社会に入り、家庭を持つ頃には、彼の方は沖縄のひとと所帯を持ち、その地へ引っ越して行った。以来半世紀以上が経つうちに、互いを見たのは1020年に一度の割合だった。

 10年ぶりに聞く彼の声は、昔ながらのハスキーボイスだった。ふと思い立ち、古いアルバムを引っ張り出した。あの頃の田舎は写真も珍しかったが、卒業式の集合写真の他に、2~3人の写真も少しはあった。下に掲げるのはいずれも中学時代のものだが、3人居る方の向かって左は、かってこの場で紹介したことのある兼三君である(童謡「ちいさい秋みつけた」で歌われる秋が、紅葉した(はぜ)のことだと教えてくれた彼は、2年前に他界)。

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202293日)


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