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抑留記と忘れ得ぬ人々(完) [読後感想文]

抑留記と忘れ得ぬ人々(完)

 

 抑留記(竹原 潔)は450頁にわたる分厚い本である。にも拘らず老骨がいつの間にかそこに嵌まり込み、気が付いたら最後の頁を読んでいた。その訳は、繰り返しになるが、この手記が人に読ませるためではなく、まるで日記の如く淡々と書かれたせいだろう。

 それに加えて僕の場合、長年ソ連に係る仕事に携わった関係上、特に若い頃は上司、取引先や業界に抑留からの帰還者が多く、中には著者・竹原 潔のように、単なる抑留者ではなく、戦犯で裁かれて25年の最高刑を食らった人もいた。だからであろうか、抑留記が語る出来事の一つ一つがとても人ごととは思えないのであった。例えば抑留記の226頁は記す、「(著者・竹原が)食堂に昼食をもらいに行った。食堂の係は元外務大臣松岡洋(すけ)氏の息子がやっていた。(中略)松岡は私の飯盒に麦の粥ではあったが、いっぱい詰めてくれ、「体に気を付けて下さいよ」と言ってくれた。二十七、八年経った今でも、それを覚えている位だから、陸軍中佐も情けないことに、余程うれしかったに違いない」。

 上記で触れられている松岡とは、極東軍事裁判A級戦犯の松岡洋右の3男坊・松岡震三であり、僕が勤めていた会社の取引先の部長であったが、のち専務まで昇進した。この他にも抑留記には「労務係の寺島君」とか、「小池君」等の名前が出て来て、それらはよくある名前ではあるが、僕が知る同姓の人の勤務先がソ連との合弁会社だっただけに、もしかしたら、という思いがある(彼らは抑留帰還者だった、と聞いたことがあった)。また、同じ職場の先輩にかって陸軍中野学校でロシア語を教えていた人とか、父親が何とか大将とかいう偉い軍人で本人は満鉄勤務だったという人がいたが、彼らは竹原中佐同様、一般の抑留者から戦犯に昇格(?)、25年の最高刑を食らい、恩赦を経て、抑留者中最も遅い11年後の最後の船で舞鶴に帰還したと聞かされた。

 

 「抑留記」も終わりに近い所で、著者が語る。囚人労働の作業中大怪我をして入院。55日後に完治せぬまま退院させられてラーゲリに戻っても、誰も彼も我関せずの無反応。そこで彼は記す、「ラーゲリでは悲しみも苦しさも一人で堪え抜き、喜びも楽しさも一人で味わうだけである。千三百人の囚人は私にとっては路傍の石に過ぎない。近頃マラソンの選手などを、孤独なる戦いなどと頗る詩的な言葉で表現することが流行しているようであるが、あれを孤独な戦いなどというのはどうかと思う。旗を振っている数万の観衆がいる。報道陣もいる。倒れたら収容してくれる救急車もいる。喉が渇いたら飲むべき飲料水まである。それに比べればここの囚人の方がよほど孤独のようである」。

 

 この抑留記は、竹原 潔が生前に残していた記録であるが、その出版を決意したのは姪の竹原裕子である。「抑留記」の後に「解題」として、裕子による潔に関する追加説明が加えられている。最後に「あとがき」の中で、裕子が出版に際し協力を得た何人かに謝意を述べている中、いきなり知り人の名が目に飛び込んで来た。その人とは3年程、机を並べて仕事をしたことがある。ロシア語が堪能で真摯なもと同僚の、懐かしい名前だった。

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20221122日)


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抑留記(竹原 潔)と糞尿譚 [読後感想文]

抑留記(竹原 潔)と糞尿譚

 

 ソルジェニーツェンの収容所群島に描かれていることはすべて事実であると、「抑留記」の中で竹原 潔は語り、次のように断言する、「彼が収容所群島に書いていることは、全部私は経験している」。そして9種類のいずれもおぞましい具体例を挙げているが、うち二つを紹介したい。その一つは南京虫、「南京虫がいるなどと言うもんじゃない。南京虫の中に人間がいるのである。一晩中一睡もできない。(中略)パン五百五十グラムで造る血はわずかである。そのわずかの血はこの南京虫に吸われてしまう。(中略)このままでいたら、私の命が危ない。(中略)夜になった。戦闘開始である。(中略)朝までの戦果は三百匹だった」。

 そして二つ目は、尾籠(びろう)な話で恐縮だが、便所のことである。これについては著者自身が文中で恐縮している、「またしても便所の話しである。この私の記事の中にはしばしば便所の話が出てくる。何分の一かは便所の話である。(中略)私の記録の中にしばしば出て来るという事は、その自然の生理的現象が常に異常な形で行われているからである。ただ、これを異常と見るのは我々だけであって、ロシア人にとっては全く平常であるかも知れない。(中略)大の方は大抵密室で行われるものである。ところが、我々は入ソ以来すでに三年を過ぎたが、大を密室でしたことがない」。

 「監房の一日は先ず午前六時、廊下で打ち鳴らす鐘の音に始まる。(中略)間もなく監守の号令がかかる、『便所!』(中略)全員揃って、ゾロゾロと便所(といっても普通我々が考える便所ではなく、一部屋の片側に十三、四ある穴のある板がならんでいるいわば便所房である)。(中略)紙で尻を拭く者は一人もいない」。

 以下は軍服についての記載、「私の軍服である。もうすっかり古びているし、冬服だというのに、裏地の半分程は千切れてなくなっている。裏地のルパシカが千切れているのは着古して自然にそうなったのではない。監獄に入ってから便所に行ったとき後始末をするのに、紙の代わりに毎日少しずつ破って使ったからである」

 まるで奴隷船のような囚人護送船の中では、「便所は船倉から甲板に上がるタラップの所にある。(中略)そこに桶が三つ置いてあるだけで、桶の上に踏板もない。船倉は超満員である。桶のすぐ横だって開けておくことは出来ない。ほとんど桶を抱えるようにして寝ている奴もいる。小便ならよい。大なら苦心してその桶に上がり、縁に足を踏ん張って尻をまくらねばならない。下からロシア人が見上げている。小便が一杯溜まった中に糞塊を落とす反動が自分の尻を襲うだけではない。桶の縁を越えてそこらに寝ているロシア人まで被害者にする」。

 ユニークなトイレと言えば、僕自身1970年代のインドネシアとか、80年代のロシアでそこそこ個性的なのに出くわしたことはあるけれど、「抑留記」のそれには遠く及ばぬものだった。

 

 一昨日、六義園を覗くと、秋はたけなわ。モミジが、水面に映る婀娜あだな姿に見惚れていた。

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20221121日)


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抑留記と究極の泥棒 [読後感想文]

抑留記と究極の泥棒

 

 見知らぬシベリアの大地を行先も分からずに着のみ着のまま列車で運ばれる抑留者、そんな日本兵を鵜の目鷹の目で窺い、隙あれば何か盗ろうとする庶民がソ連に居たというから凄まじい。捕虜の兵たちがぎゅうぎゅう詰めの貨車で運ばれる途中、夜は引き込み線に停車する。兵たちが貨車の外で眠ると、携行していたリュック等が無くなることがある。それはその土地々々の人々が貨車の反対側の下からカギを付けた長い棒を突っ込み、引っ掛けて手繰り寄せるからだった。

 或いは、捕虜は歩くが、その手荷物をトラックが運ぶことがあった。そんな時、竹原中佐はトラック毎に体調の悪い捕虜の兵を見張り役に乗せたが、その理由を彼は語る、「トラックの運転手をすべて泥棒だという私の言葉に、抗議する人がいるかも知れない。(中略)1万人の運転手の中には1人くらい泥棒をやらない運転手がいるかも知れない。私はそう確信し、断言する」。

 第2次世界大戦をソ連は大祖国戦争と呼ぶが、その大戦でソ連は世界断トツの20003000万人を失っている。庶民が日本人捕虜のなけなしの持ち物まで狙わなければならない背景には、大戦で徹底的に崩壊された生活があったものと推定されるが、それにしてもおぞましいことに変わりはない。

 上で触れたトラックの1台に竹原中佐が指揮のため同乗した。トラックの運転手は集落で中年の女性と老婆をお金を取って乗せた。そして「抑留記」は記す、「先程からチラチラと私の顔を見ていた中年の女の方が、籠の中からトマトを一つ取り出して私の方に差し出し、『あなたは日本人でしょう、これをお上がりなさい!』。(中略)私は、『スパシーボ』と言って、そのトマトを受け取り口に入れた。『旨いよ』と言うと、彼女、初めてニッコリした。このことは今から二十二年前の昔にあったことである。しかし私は、この1個のトマトを貰ったことをはっきり覚えている。それは、私がソ連に抑留されていた十一年余の間に、ソ連人から受けたただ一回の親切であったからである」。

 

 閑話休題、下の写真は昨日訪れた地下鉄後楽園駅そばの礫川(れきせん)公園にあるハゼノキの紅葉である。この木こそ、60年以上前にサトウハチローに童謡「ちいさい秋みつけた」を書かせた張本人であることは、一年前の投稿で触れさせて頂いた。昨年見た時はまだ緑の方が多かったが、今度は真っ赤に燃えていた。サトウハチローの庭ではまだ小さかった秋が、様々な時代を乗り越えて、ずいぶんとでっかくなったもんだ。IMG20221029112909.jpg

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抑留記(竹原 潔)と脱走兵 [読後感想文]

抑留記(竹原 潔)と脱走兵

 

 あれは一体いつ頃のことだったか、僕が中学か高校の時だから60年以上も前のこと、飛騨の山奥の僕んちの居間に胡坐をかく客一人。父の従兄の貞ま(貞夫さん)が満蒙開拓団に

行った先で兵隊に採られた話しを語るのを、家族揃って聴き入った。満州のそこはとても過酷で不衛生な環境で、殆どの兵が下痢に苦しむ中、貞ま一人がぴんぴんしているのを(いぶか)る戦友に訳を訊ねられた。ようは分らんが、時々(まむし)に遭うと捕まえて生で食っとるが、と言うと、戦友は気味悪そうな顔して離れて行った(ところで蝮の生肉と言えば、僕の子供時代、祖父と父に付いて山仕事に出掛けた時、途中出くわした蝮を祖父が捕まえ、昼飯の時二人で舌鼓を打ちながら食べていた。僕はよう手を出さなんだが、白身の肉だった)。満州の蝮は、この辺の蝮と違ってなあ、と貞まは続ける。手で尻尾を持ってぶら下げると、頭はそのままだらんと垂れ下がったままやから、おとなしいもんやった。

 だがソ連が満州に侵攻して来て、部隊が投降し、みんな列車に乗せられた。どこへ連れて行かれるのか全く分からないので、たまらなく不安やった。で、夜陰に紛れソ連兵の目を盗み列車から跳び下りて脱走、何とか逃げおおせることができた・・・・という貞まの口上を、遥かに遠い異国のことなど想像もできない家族一同、固唾をのんで傾聴したものである。

 以来60余年の間にソ連抑留関係の書物を何冊も読んだが、満州からソ連に拉致される日本兵が列車から脱走したなどという話しはどこにも書いてない。だから、貞まの話しを思い出すたび、あれは本当にあったことだろうかと、首を傾げたことだった。

 そして出遭った今度の「抑留記(竹原 潔)」。その57頁で、いきなり次の文言が目に飛び込んできた、「兵隊の中に逃亡するものがしきりにあった。何しろ兵隊の中には現地召集を受けたものが相当いて、それらの者は家族が満州に居るものが多い。その耳に満州各地におけるソ軍暴行の噂がしきりに入って来る。矢も楯も堪らなくなって、逃亡するのだ。途中の危険は百も承知の上である。私は逃亡者については一切報告しなかった(注:著者の竹原は中佐のため、日本兵輸送時の変事についてソ連側責任者に報告する義務を負わされていた)。(中略)二百人以上の逃亡者があったが、私の責任を追及されることは一度も無かった。私としてはただ無事に逃げおおしてくれればと祈るだけだったが、果たしてうまく逃げおおしてくれたかどうかは、私は今日(昭和53年)に到るまで知ることはできなかった」。

 読みながら、胸の中で呟いた、「竹原さん、逃げおおせた人を一人知っていますよ。その人は僕の従伯父(いとこちがい)。逃亡のあと家族のもとに辿り着き、日本に向かう途次、父親こそ病で亡くしたものの、母親、嫁さん、子供ともども無事日本の土を踏み、ふる里に戻って来られました。そして暫くは我が家の、以前は厩であったスペースに住まわれました。僕が生まれて間もない頃でした」。

 今日は快晴。久し振りの散歩に出掛け、街角の小さな公園に入ると、モミジの樹が陽を浴びて真っ赤に燃え上がり、緑の藪の中に立つ低い灌木の葉が上品なコーラルピンク色に染まっていた。友よ、巷の秋もたけなわぞ。

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20221118日)


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抑留記(竹原 潔)とプーチンの戦争 [読後感想文]

抑留記(竹原 潔)とプーチンの戦争

 

 前回の投稿「抑留記(竹原 潔・裕子)」で触れた通り、先の大戦から77年も経った今頃出版されたこの本を、昭和19年に生まれたとはいえ戦時体験など皆無の自分が読む気になったのは、サラリーマン生活最後の6年と関係がある。その6年間、僕はお役所に通いロシア語資料の翻訳に携わった。資料は、その昔ソ連の捕虜収容所が収容した日本人捕虜について記載した個人情報であった。

 単なるロシア語の翻訳の仕事だと、軽い気持ちで霞が関へ通い始めた僕は、日を追うにつれ妙なことに気付いた。日本の戦争が終わってから70余年、僕の気持ちの中では、あれは遥か昔の出来事で、すべてはとっくに清算済みのはずだった。なのに、何故いまソ連に抑留されていた日本人捕虜なのか?徐々に、しかし霧が晴れ、そして知った、あの戦争が未だ終わっていないことを。即ち、ソ連(含・モンゴル)抑留者575,000人の大半は後年日本に生還しているが、残る約1割の55,000人のうちロシア側の資料によって死亡が確認できたのはその6割に留まり、21,000人についてはロシア側からの資料不足により未だ杳としてその行方が知れないのだ。

 それはともかく竹原 潔の「抑留記」には、これまで読んだ同様の手記には見られなかったリアルな抑留及び監獄生活の実態が描かれている。おそらくそれは、この手記が他人に見せるためではなく自身に向かって書かれたために、何の衒いもなしに、起きたことを淡々と綴ったからであろうし、また、彼が通常の「日本人専用収容所の抑留者」の立場から、軍法会議による判決後は政治犯たる囚人となって、ロシア人犯罪者専用ラーゲリ(強制労働収容所)に叩き込まれるという特異な体験をしたためでもあると思われる。

 文中、おやっ?と思ったことのうち、今日はその一つを紹介したい。冬場は零下56度まで下がる極北のコルイマ収容所で、あるロシア人の囚人のたまわく、「軍律違反で5年の刑を貰ってラーゲリに居たんだ。ところが今度の戦争だ。(中略)戦争が激しくなってラーゲリで戦争に行く志願兵を募集したんだ。戦争に行って働いたら、刑を免除するという条件でナ。(中略)みんな志願したな。戦争だから弾丸にあたって死ぬこともあるだろう。しかし、うまく行ったらもうけ物だからナ。わしは幸い弾丸にもあたらず、四年間も戦争をやり勲章をもらい、曹長になった(後略)」。

 これを読んで君がどう思うかは分からないが、僕はええつ?と思った。ついさっきまで、犯罪人をウクライナの戦争に使うのはプーチンの専売特許だと思い込んでいた。ところがそれが実は古い、古い手口だったとは!

 今日は今から小学校へ、学童の帰宅パトロールへ。日毎に日が短くなるので、アパートに戻る頃は真っ暗だろう。写真は、それぞれ別の日にパトロールから我がアパートに戻り、9階の廊下から見た東京砂漠の夕景色である。

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20221117日)


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ふる里の秋(その2) [巷のいのち]

ふる里の秋(その2)

 

 一周忌の1113日(日)、墓参りのあと、母が嫁入りしてから71年を過ごした実家に寄り、かってこちらから母に送った手紙や写真等を検分した中に、一冊の雑誌があった。その表紙から見詰める女性の顔を見て、あっと思う。その人は、当時勤めていた会社が26年前にアゼルバイジャンの首都バクーにオフィスを開設した時、そこへ派遣された僕が最初に雇用した3人のスタッフの1人であった。彼女はミス・バクーになったことがあるから、いつの日か記念に貰った雑誌なのであろう。

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表紙をめくって、もう一度驚いた。そこには199784日付の日本の新聞の切り抜きが貼ってある。それは、勤務先の求めに応じて僕が書いた文章だった。

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【アゼルバイジャンと日本の共通点】

 アジア最果ての国アゼルバイジャンに、日本関係のオフィスが二つある。いずれも生まれて一年に満たない。その一つがわが事務所で、スタッフも若く、三人とも二十代である。

 昼食は、賄いのおばさんが作ったものを皆で食べる。といっても、男女7歳にして席を同じゅうせずで、男は男同士、女性は別の部屋で、ということになる。

 肉料理はマトンが多いが、臭みはない。野菜が豊富で、草のようなのを、生のままやスープに入れたり、肉に包んだり、卵と一緒にいためたりと、調理法もさまざまである。最近、みそ汁とチャーハン、カレーライス、ほうれんそうのおひたしが、おばさんのレパートリーに加わった。この国に住む日本人三人のうち一人が女子留学生で、彼女から教わったのである。

 こうした昼食をスタッフと一緒にとりながら、お互いの習慣や家庭について尋ね、また語るうちに、どこか日本と似ていることを感じる。彼らは物腰が概して柔らかで、静かに、相手の気持ちを推察しながら話す。自己主張は少ない。

 「もしかしたら君たちにも、生まれたとき、蒙古(はん)がなかったか」と聞くと、若者たちは皆「そんなものは、あったはずがない」と言う。たまたま居合わせた賄いのおばさんが「あった」とうなずいた。二人の子供を産んだとき、どちらにもくっきりと斑点が浮いていたとか。若者たちは幼い時、自分のおしりを見た訳がないので、おばさんの勝ちである。

 イスラムの国とはいっても、酒は飲むし、豚肉を食べる人もいる。祈っている人の姿も見かけたことがない。スタッフのだれ一人として、コーランを読んだことがないという。わずかに冠婚葬祭で、イスラムの風習が見え隠れする程度だ。

 日本人はどうか。自分は仏典など見たこともないし、仏教や神道のかけらも知らぬ。結婚式は神前だったような記憶があるだけである。父親の葬式では、お経を読み終わった僧りょが、刺し身を食べていた。ここのイスラム教徒となんと似通っていることか。

 オフィスランチを食べながら、スタッフと話をしていると、アジアで最も東の国と西の国とが、根底では相似していることに驚くことが、よくある。

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 一昨日、僕はこの雑誌を持ち帰った。25年も昔、僕はこの雑誌を母に送った。何のために?きっと、こんな美人と一緒に仕事をしているんだと自慢したかったに違いない。新聞記事の方はまた、現地のオフィスの様子を知らせるふりをして、載ったことを自慢したかったのだろうか?その頃の自分自身の意図などすべては忘却の彼方に消えているが、間違いないのは、母がこの雑誌と新聞の切り抜きを後生大事に持っていたことだ。ふと思い出す、いつだったか目を輝かせるようにして母が言っていた、自慢話は他所で言ったらあかんよ、と。

20221115日)


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ふる里の秋(その1) [巷のいのち]

ふる里の秋(その1)


 


 久し振りの旅は、母の一周忌に向かうふる里への旅だった。木曽路がすべて山の中(島崎藤村「夜明け前」)なら、JR高山線の飛騨路はすべてが渓谷に沿う山あいの道。列車の先にはどこまでも山が重なり、カーブする都度また新しい山々の重なりが現われる。遠い山並みの果てにもし一際深い切れ込みがあれば、その下にはきっと渓流が流れ、今乗る列車はそこに向かって走るのだ。


 下呂温泉で泊まった翌朝タクシーで菩提寺を訪れ、一周忌の法要の後、山を少し登って墓に参る。真新しい墓碑には父と次男に挟まれた母の戒名がある。福壽妙斐大姉。福壽とは、幸せに長く生きたという意味だから、母の斐子(あやこ)に相応しくどこか艶やかだ。それにつけても思うのは、30年以上も前に他界した父の戒名の方だ。達道公僕居士。父・達雄は田舎の小さな特定郵便局に長く勤務。そして母は、父を偲ぶ追悼集に書いた、「17歳から63歳まで、47年間、郵政一筋に勤めて(中略)、何よりも職場を愛し、仕事大事に勤めていた様です。退職してからも『郵政で一生飯を食わしてもらったのや、たとえやめても郵政のために貢献するのが当り前』というのが主人の信念で、(中略)『達道公僕居士』の戒名の如く、公僕に徹した一生だったと思います」。父は確かに謹厳実直を絵に描いたような公務員だった。しかし、魚釣りが大好きで、酒をこよなく愛し、そそっかしい失敗談にも事欠かなかった(例えば、母を見初めた頃、母が下宿していた家の2階を仰ぎ見ながら歩いていて、赤い郵便ポストに正面衝突)。戒名にはもう少し色を付けてほしいと思ったが、所詮は後の祭りであった。

 


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 飛騨の山もまた麓の里も今がちょうど紅葉の真っ盛り。モミジが真っ赤に燃え上がっている。そんな中に小さな白い虫がいっぱい飛んでいる。久し振りに見る雪虫だった(京都ではユキンコというらしい)。これが飛ぶと、1~2週間後に初雪が降るという。実家の庭の中でもふわふわと、ふわふわと飛んでいた。スマホを構えるのを忘れたが、体長5㎜が飛ぶ様を捉えることは至難だったに違いない。掲げた写真はネットからの盗用なのでお許しあれ。


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20221114日)


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抑留記(竹原 潔・裕子) [読後感想文]

抑留記(竹原 潔・裕子)

 

 新聞広告を見て何とはなしに図書館から借りて来た新刊本「抑留記」。最初はごく軽い気持ちで読み始めたが、気が付いたら自らが時代を70年も遡って、主人公(記録者)の竹原 潔(陸軍中佐)の中に潜り込み、満州から西のマルシャンスク(モスクワ近郊)へ、翻って東のハバロフスクへ、とどのつまりは極北の零下56度のコルイマへと、ラーゲリ(強制労働収容所)を巡り歩いていた。滅多にないことだった。

 いや、シベリア抑留というテーマ自体には、それだけで尽きせぬ興味がある。何故なら我がサラリーマン人生52年を締め括る、古希に始まる6年こそが常に同じテーマの下にあったからである(その6年僕は霞が関のお役所で、抑留帰還者や未帰還者に係るラーゲリのロシア語資料の翻訳に従事していた)。

 そんな関係もあってその頃、シベリア抑留に関係した単行本を何冊か読んだことがある。何冊?と思って読書記録を覗いたら、17冊も読んでいた。しかし、しかしだ。これまではこの「抑留記」のように惹き込まれるように読んだ記憶はない。今度のはどこか異質なのだ。何故だろう、と思って思案するうちあることに気が付いた。それはこの本が出版される(他人に読まれる)目的で書かれたものではないということである。記録者本人の竹原 潔が40年も前に物故している中、今般出版を決意したのは姪の竹原裕子。だからであろう、潔はラーゲリで起こった出来事を糞尿譚も含め衒いもなく赤裸々に綴り、当時囚人間で交わされた卑猥な罵り言葉を至る所に散りばめている。

 それでいて不思議なのは潔の、それこそ大和男子の鏡のような高潔な人柄が全編に満ちていることである。彼は日本軍の特務機関の情報将校ゆえに25年の最高刑を食らい、シベリア抑留者の中では最も遅い最後の船で帰還している。過酷な環境下の強制労働のため骨と皮だけになっても、露助(ロシア人に対する当時の蔑称)の看守や牢名主に(おもね)ることなく、日本という国と日本人を意識して頑張り通した姿には胸をうたれた。

 かくして11年にわたる抑留生活の思いのたけを筆を執って書き散らした潔だが、その死後40年後に自らの雄叫び「抑留記」が姪の手により出版され、僕のような有象無象の眼に晒されようとは思いも寄らぬことだったに違いない。

 驚いたことがある。叔父の潔の手記を出版しようと決意した姪・竹原裕子の解題を読むと、山崎豊子があの「不毛地帯」を書く直前に竹原 潔に何度もインタビューを重ねたそうだ。主人公・壱岐 正のモデルは瀬島龍三(抑留11年を経て伊藤忠に入社、伊藤忠会長を経て、中曽根康弘首相の懐刀になる)だと喧伝され、てっきりそうだと思い込んでいたが、正義感に溢れた壱岐のひたむきな生き方を思うとき、竹原 潔こそ遥かに相応しいと思えてならない。「不毛地帯」の真のモデルは、少なくともラーゲリを生き抜いた抑留時代に限っては、瀬島ではなく竹原 潔こそ相応しいと思えてならない。

 この「抑留記」を読む中で、この他にもいろいろ教えられたり、感動させられたりしたことがあるが、それらについては別途日を改めて記すこととしたい。

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20221111日)


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遅れて来たセミ [巷のいのち]

遅れて来たセミ

 

  昨日118日の夕まだき、学童帰宅パトロールのため小学校の校庭に侍る。整列した学童を前にして若々しい女の先生の声が響く、「今晩は大変珍しい皆既月食があります。6時位に欠け始め、8時頃に終わります。良かったらおうちでご覧下さいね」。

 パトロールを終え帰宅したら6時半を過ぎていた。先生の言葉を思い出し、アパートのベランダ(9階)に出てみると、確かに月が少し欠け始めている。スマホをかざし、拡大して写真を撮るも、余りに遠過ぎてうまく撮れない。

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だが足元の何かが視野に入ったので、拾い上げたら何とそれはアブラゼミ。圧してもピクリともしないので、魂は既にここには無いけれど、整ったその姿かたちと手に触れる感触からすると、どうもさっきまではこの世にいたようだ。

 しかし解せない。今年は9月も中旬を過ぎると巷からはセミの声が絶え、代わりに秋の虫が鳴きだした。今ははや11月、昔で言えば霜月だ。セミは地中に生まれ雌伏7年、恋を成就するため地上に這い出て7日生きるというのに、今頃いったい何のために現れたというのか?

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 明くる朝の朝刊で知った。昨晩の皆既月食は唯の皆既月食ではなかった、同時に天王星食をも伴ったのは実に442年ぶりのことらしい。ふとあのセミを思い出し、これを見に来たのかと思ったが一瞬後、まさかなあと打ち消した。

2022119日)


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巷の初秋 [巷のいのち]

巷の初秋

 

 シルバー人材センター斡旋の学童帰宅時パトロール稼業(日暮れが早い冬場専用)も3年目の冬を迎えた10月中旬の早朝、珍しく食欲が無いので熱を測ったら385分。熱などもう何年も出たことがないので、高齢の上、心肺ともに基礎疾患を抱える我れ、いよいよ年貢の納め時かと慄いた。シルバー人材センターに電話で状況を伝え、取り敢えず一週間パトロールを休みたいのでとピンチヒッターの手配をお願いした。そして、掛かり付けのクリニックに駆け込み、PCR検査を実施。かくして大山鳴動したはずが、翌日出て来たのは陰性ネズミ一匹、熱も平熱に戻った。

 という次第で、翌週から平日の夕方は再びパトロール稼業にいそしんでいる。気候はめっきり涼しくなり、小学校に向かう道筋の樹々の葉も徐々に色付きを増す中、一本の漆の木が早々と全身を真っ赤に染めていた。

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 ついついタイトルに惹かれ、珍しく政界をテーマにした本を読んだ。『安倍なきニッポンの未来・令和大乱を救う13人』(乾 正人)。現代政治に関する単行本などまともに読んだことがないので、ほとんど知らないことばかりだったが、特に印象に残ったのは次のようなことだった:

♢著者の独断と偏見を以てしても、安倍晋三に匹敵しそうな人材は見当たらない。

13人の殆どは自民党だが、例外は維新の吉村・大阪府知事と参政党の神谷(そう)(へい)。後者に至っては恥ずかしながら、そんな政党ができていたことすら知らなんだ。

♢全くの偶然ではあろうが安倍晋三が世を去った67歳は、また父の安倍晋太郎が逝去した齢だったことも知らなんだ。

♢あのプーチンが安倍晋三の国葬に参列したかった?ロシア側が秘かに日本側に接触し、プーチン参列の可能性を探った、しかし岸田首相がこれを一蹴したと。いやあ、知らなんだなあ。

 この世は、とにかく知らんことだらけ。

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(2022年113日)


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