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僕の内なる太平洋戦争(一葉の写真) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(一葉の写真)

 地球の反対側で今も進行するウクライナ戦争、それが何故80年も前の日本の戦争の方に僕の注意を向けようとするのか不思議に思う。戦争の無い時間ばかりをずっと生きて来たし、戦争にはまったく関心が無かった。祖父が日露戦争に、父が大東亜戦争に行ったやに聞いたことはある。兵隊の父が北海道で飛行場の建設に携わったと聞いたことはあるが、祖父に至っては海を渡ったことがあるのかさえ聞かなんだ。どちらも無口な二人だったから仕方も無いことだけど、彼らの来し方について一言も訊かなんだ我が無関心も情けない。  

 さて、『日米開戦 陸軍の勝算』に戻ろう。太平洋での度重なる敗戦で海軍が再起不能な大損害を被ったため、陸軍が期待したインド洋の英国からの覇権奪取、ひいてはインドの独立は夢のまた夢となり、かのマハトマ・ガンジーも日本に寄せる期待を失ったと言われる。山本五十六に対する著者の林 千勝(ちかつ)の評価は辛辣である。太平洋を東に向かわず西進し、インド洋作戦を貫徹していれば、英ソ支に対し決定的なダメージを与え、第2次大戦の戦局そのものが激変していた可能性がある。山本の犯した失敗は万死に値する。にも拘らず、彼は死後国葬にまで付され、あまつさえ元帥の称号が贈られて今に続いている。これではあの戦争で散った二百数十万の兵士が余りにも可哀想だと、著者は地団駄を踏む。

 読み終えて思う、この本の著者が主張することの妥当性も含め、『僕の内なる太平洋戦争』の旅をこの先も続けようと。父母の世代の、自らは係ることの無い歴史だけど、何故か気になって仕方ない。現在進行中のウクライナ戦争とも、どこかで繋がっているような気もするし。― 残された時間は、余り無いけれど。

 写真は、半年足らず前に姪から送られて来た、父出征時の母とのツーショット。亡き母の遺品を整理していて見付けたらしい。見たこともない写真だが、写真など珍しい時代の山奥のこと、きっと大切に蔵われていたに違いない。いつ撮られたものか気になってふと、31年前父を偲んで創られた追悼集『またおいでよ』を読み直すうち、母が書いた文章に目が吸い寄せられた、「19年の寒い冬の日、校長先生から『達雄さんに召集令状が来た、直に帰りなさい』と云われた時は、足元がくずれていく様な気がしました。それからは挨拶廻り、壮行会と慌ただしい日が続いて、ゆっくり話をする暇もなく、岐阜の連隊へ入隊しました。その時すでに長男が腹の中にいた事を、主人も私も知りませんでした」。- 写真が撮られたのは昭和19年(1944年)が明けて間もない冬の候、そのとき腹の中にいたのは、僕だった。

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2023927日)


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僕の内なる太平洋戦争(山本五十六) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(山本五十六)

 『日米開戦 陸軍の勝算』(林 千勝)の感想を続けたい。長い間、僕のイメージの中の大日本帝国海軍はいつも格好良かった。若い頃カラオケで歌った軍歌は「ラバウル小唄」や「若鷲の歌」、そして山本五十六といえば、そりゃもう軍神みたいなもの。「トラ・トラ・トラ!」という映画があって、今じゃ観たかどうかの記憶さえ飛んでいるが、ただ山村 聰扮する凛々しくも聡明そうな軍服姿が心に焼き付いている。だが、その海軍が、それを率いる山本司令長官が真珠湾に殴り込みをかけ、眠れる獅子でいたかったアメリカの目を覚ましてしまったのだった。そんなきっかけを何故わざわざ作ったのか、長い間米英側には不思議だったようで、戦後A級戦犯として巣鴨に拘置中の海軍トップ・長野修身(おさみ)・軍令部総長に対し(山本五十六は1943年太平洋で戦死)、「なぜ真珠湾を攻撃したのか?」と尋ねている。永野は、真珠湾は山本の職(艦隊司令長官)を賭した不退転の決意による提案であったためだと説明した。

 真珠湾に先立つこと23日前の19411115日、大本営政府に於いて「対米英蘭蒋戦争」の開始が正式決定されていたが、これは米英蘭による対日全面禁輸に苦しむ日本が『自存自衛』を目的に(あわよくばアジアの植民地の独立も目指し)決定した国家方針であった。そして真珠湾攻撃の4日後ではあるが、19411214日、日本政府はこの戦争の正式名称を『大東亜戦争』とすることに閣議決定、そこには東アジアの解放の意が籠められていた。 

 さて、陸軍は米国との対決は極力避け、南進と東南アジアからインドへの進出を意図、勝てないまでも負けない合理的な戦争を目指した。ところが山本率いる海軍は、真珠湾の後も矛先を太平洋の米国海軍に向け続け、開戦半年後の19426月にはミッドウエー海戦で敗北、19428月~19432月のガダルカナル島を巡る戦いで大敗を喫し、その直後には山本五十六の搭乗機がガダルカナルの北、ブーゲンビリア島上空で撃墜された。

 写真は、ネット上で見付けた「トラ・トラ・トラ!」の山本を演ずる山村 聰の写真である。さて、凛々しく見えるかな?

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2023926日)


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僕の内なる太平洋戦争(日米開戦) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(日米開戦)

 ついこないだまで(ということは80年近くも)思い込んでいた、大日本帝国の陸軍は、頑迷で威張り腐って非合理的、一方の海軍は、開明的で闊達だと。それは長年にわたりいつの間にか培われた固定観念のようなもので、司馬遼太郎の歴史小説でもそのように描かれていたし、今からは半世紀前の職場で出遭った陸士出身の上司は強面が多く、海軍出身者はハンサムで優しそうに見えた。こんなことがあった。入社一年目、連日の深夜残業のためある日食堂で夜食を済ませたあと席に戻ると、部長に呼ばれた。どこに行ってたのかと訊かれたので、答えたら、あのなあキミ、会社は飯食いに来るとこじゃないぞ、とバッサリ。部長の別名は鬼の田村、陸軍士官学校最後の卒業生だった。

 この本『日米開戦 陸軍の勝算』(林 千勝)を読むうち、そんな僕の思い込みにヒビが入り、読むにつれ大きくなって、ついには崩れ落ちそうになっている。今に残る帝国陸海軍の文献を渉猟し尽くしたと自負する著者が断言するのだ、陸軍はアメリカと戦ったら必敗なので対米戦を避け、蘭領インド(今のインドネシア)から西の大東亜圏に戦域を限定しようとした。海軍とて大方の考え方は同じだったが、時の連合艦隊司令長官の山本五十六(いそろく)は違った。彼は、真っ先に太平洋を東に進み、米国海軍の本拠地を叩いてぎゃふんと言わせ、戦意を挫いたところで早期停戦に持ち込む、それしか勝機は無いと強く主張したため、ついにはあの真珠湾攻撃となった。ところがこの真珠湾が米国民に真逆の反応を惹き起こす。(第1次大戦に参加したばかりに25万人以上の死傷者を蒙った反省から)政官民挙げて他国間の戦争に不参加の意向を示していたアメリカの世論が、真珠湾を攻撃されると、ぎゃふんとなるどころか寧ろ逆上、日独伊撃つべしとの大転回が起こった。

 本書をここまで読んで、ぎょっとした。アメリカにまったく戦意が無かったなんて聞いたこともない。じゃあ何で資源の無い日本に石油以下の全面禁輸を課したのか?それに、陸軍は非合理かつ頑迷ではなかったのか(鬼の田村のあの言葉は、もしかして「頑張れよ」という励ましだったのか)?首をかしげる我だった。

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2023925日)


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曼殊沙華 [巷のいのち]

曼殊沙華

 去年の今日、「秋立ちぬ」と題してアパートの庭に咲き始めた彼岸花、またの名曼殊沙華を紹介した。そのことを思い出し、玄関を出てアプローチの敷石を進みつつふと足元を見て歩を止めた。殆ど透明な羽根に淡い空色の胴体、子供の頃よく見かけた塩辛蜻蛉(しおからとんぼ)だ。そいつを避けて廻って庭に踏み入ると、嗚呼、今年も秋を先駆ける赤い蕾の、中には待ち切れず赤い花、白い花を開いて、四囲に雄しべ雌しべをいっぱい差し伸べた曼殊沙華。日中の外気は未だ30度を超えるのに塩辛蜻蛉に曼殊沙華はどこか秋の気配・・・と思って帰って早速報告すると、彼岸花ねえ、墓場の花なのにわざわざ庭に植えるなんて、と女房殿はにべもない。 

 その時何故か思い出した。数年前、女房と二人埼玉県の飯能の奥へ彼岸花を観に行った。西武池袋線を高麗駅(こまえき)で降りて、歩いた先の巾着田(きんちゃくだ)、何とそこには500万本の曼殊沙華が咲き乱れていた。ネットを見ると今年も今は、曼殊沙華祭りの真最中。数年ぶりにそろそろ訪ねてみるかと思いつつ日記を紐解くと、彼の日は2014923日(秋分の日)。げっ!もうひと昔も前のことだった。

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2023921日)                                                                                                                               

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僕の内なる太平洋戦争(寒い国から来たスパイ) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(寒い国から来たスパイ)

 「近衛文麿(林 千勝)」は400頁近い単行本だから、年寄りにはちと辛かった。登場人物の半分は聞いた事もない名前、あとの半分は名前だけはどこかで聞いたことのある中に、尾崎秀実(ほつみ)がいて、この人の本「愛情はふる星のごとく」を読んだ記憶がある。確か25年ほど前、カスピ海の畔アゼルバイジャン(旧ソ連)の首都バクーに駐在してた頃だ。だが中身は?きれいさっぱり記憶から消えている。当時、単身赴任の僕がバクーの街を漫ろ歩いていた時、とある公園で異様な石碑に遭遇した。人物像でもなければ、顔面像でもなく、ただ二つの眼が道行く人を睨んでいるのだ。それは、先の大戦の最中、ソ連のスパイとして日本で捕まり処刑されたドイツ人ジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲ。バクーは、彼の生地だった。それで調べると、ゾルゲと相前後して捕まり、一緒に処刑された日本人が尾崎秀実だったのだ。彼が獄中で書いたのが「愛情はふる星のごとく」と知り、似非ロマンチストが俄かに興味を掻き立てられたとしても不思議ではなかったろう。

 今回「近衛文麿」に改めて教えられた尾崎もやはりロマンチストだったのか、東大時代に共産主義に惹かれ、コミンテルンに参加、朝日の記者時代には1936年の西安事件(張学良による蒋介石の拉致・監禁事件)の行く末(蒋介石の延命とその後の国共合作)を正確に予想したことにより、一躍有名を馳せ、やがて近衛のブレーン・トラスト「昭和研究会」の一員となり、やがてその中に新たに立ち上げられた「支那問題研究会」の委員長に就任する一方、近衛首相官邸に一室を得て、政府の機密情報に常時接するのであった。

 昔、バクーで惰眠を貪っていた若い頃は(と言っても50歳を幾つも超えてはいたが)、世の中の事なんにも分かっていなかったようである。「愛情はふる星のごとく」の中身は一切忘却の彼方だが、これは尾崎が巣鴨拘置所で書き綴った妻と一人娘に宛てた書簡集であったらしい。なお、ゾルゲについてはてっきりバクー出身とだけ思い込んでいたが、彼は石油掘削技師のドイツ人の父と、ロシア人の母のもと確かにバクーで出生したものの、彼3歳の時には一家で既にベルリンに移住している。なのにあの、バクーで見た大きな眼の石碑が何故あそこにあったのか、今にして思えば不思議である。不思議ではあるが、ゾルゲが掴んだ情報(日本の基本方針は「南進」、ソ連に向かう「北進」は無い)は、ドイツに西から猛攻されていたソ連にとっては(二正面作戦が回避できる意味で)、実に貴重な情報であったのか?幼時にソ連を離れたドイツ人のために、あのように大きな眼を二つ造って顕彰するほどに?

 掲げる写真の2枚は、ネットからの尾崎とゾルゲの顔。3枚目の大きな二つのギョロ目は、前世紀末バクーの公園で撮ったゾルゲの記念碑。なお、ゾルゲと尾崎が絞首刑により処刑されたのは1944年の117日、その日はちょうどロシア革命記念日であった。

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2023918日)                                                                                                                               

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僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿その2) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿その2)

 平安中期に「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」と歌い、栄耀栄華に酔い痴れた藤原道長の子孫・近衛文麿は、公家特有の狡知に長けていただけに、真珠湾攻撃により米国との戦争が始まる以前に政権を返上、且つ、終戦半年前の19452月に、天皇宛て上奏文の中で戦争責任を共産主義者と軍部の一部に転嫁、もって自らの責任は回避できたと踏んでいたようである。ところが終戦から半年も経った頃、GHQから近衛に逮捕状が出され、19451216日巣鴨拘置所への出頭命令が下った。その前日は荻窪の近衛邸に近衛のブレーンが集まり、GHQによる尋問対策が練られた。その夜、近衛は頗る元気で、翌日からの尋問対策につき喧々諤々、議論を重ねる。

 ところが翌早朝、近衛は服毒自殺の姿で発見された。彼が休んだのは個室だったが、当夜は万一の場合に備え家族が気を配っていたし、集まったブレーンのうちの2人(松本重治、牛場友彦)が隣室に侍っていたにも拘らず、発見時には既にこと切れていたのであった。本書の著者は当時の状況を踏まえ、共産主義者の仲間を売った近衛に対する復讐の毒殺であったとの見方を採っているが、さて如何なものか。

 そして近衛の長男の文隆だが、陸軍中尉であった彼は終戦時にソ満国境でソ連軍の捕虜となり、戦犯として11年に及ぶ抑留生活の末、1956年の日ソ国交回復に伴う釈放の寸前、体調を崩し急死する。後に、アメリカに亡命した駐日ソ連諜報部員ラストロボフが米国上院で、文隆はソ連のスパイになることを拒否したため殺されたと証言。著者は言う、ソ連のスパイになったふりをして帰国した軍人が沢山いたのに拘らず、文隆は、父親の権謀術数に満ちた生き方とは真逆の生き方を選んでしまったのだと。

 写真は先日道端で見掛けた朝顔の花。子供の頃、田舎ではよく見かけたのに、大人になってから都会では滅多に見てはいなかった。懐かしさについ見詰めると、見つめ返されたような気がしたのは、きっと老いの錯覚だったろう。

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2023917日)


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僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿)

「近衛文麿」— 世が世なら手を出す筈も無い本だった。そもそも近衛文麿なんて、対米戦争直前の風雲急を告げる時期の日本の総理として名前こそ記憶の片隅に転がってはいたものの、一切関心を寄せた事もない。なのに手を出したきっかけは二つ、一つは現下のウクライナ戦争、もう一つはごく最近読み始めた歴史修正主義関連本の影響である。本書の著者もまた歴史修正主義者と言われる林 千勝(ちかつ)である。

 近衛家は、日本最大の貴族「藤原家」の流れを汲む名門中の名門。何しろ藤原家の始祖は、飛鳥時代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と謀り蘇我入鹿(そがのいるか)を滅した大化の改新(645年)の立役者中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、その功績により天智天皇から授かったのが藤原の姓であった。以来藤原家は摂政・関白を輩出するのみならず、多くの子女を天皇の妃として輿入れし(ために歴代天皇の母の四人に一人は藤原姓)、平安中期に藤原時代とまで呼ばれた時期があるように栄耀栄華の限りを尽くした。そんな名門の中でも近衛文麿はとりわけプライドが高く、貴族といえども天皇の前では直立不動の姿勢をとる中、彼だけは椅子に座り、時には長い足を組み、組み替えたと言われる。

 その近衛が、総理として日本の政治を取り仕切った時期こそ、我が国が支那事変から対米戦争に向かってひた走る4年であった。真珠湾攻撃(1941128日)の時点では近衛内閣は2カ月前に総辞職、東條英機に代わっていたが、もはや後戻りができない所まで事態は進んでいたのだ。即ち、我が国の歴史上最も危機的な時期が近衛内閣の時期に重なっていたと言っても決して過言ではない。なのに驚くなかれ、近衛の私的ブレーン「昭和研究会」に多種多彩なアカ(共産主義者)が入り込み、彼らは内閣府に職を得、或いは自由に出入りしていた。そして彼らを通じ日本中枢の情報がソ連、中国のみならず米国にも筒抜けであったこと。彼らの中には戦時中にリヒャルト・ゾルゲ(ソ連のスパイのドイツ人)に連座して逮捕され、絞首刑となった尾崎秀美(ほつみ)(もと朝日新聞)もいたが、これは例外中の例外であって、殆どは戦後に生き残り政財界、学会、マスコミ等で名を馳せた者が多い。

 著者が描く近衛の人物像は、限りなく陰険である。即ち、腹の中では彼はどだい日本がアメリカに勝てる筈も無いのでいずれは負ける、負けて、天皇制が廃止される暁に彼自身が日本に君臨、我が世の春を謳歌することを秘かに企んだ(そのためにこそ身近にわざとアカを飼い、情報が敵方に筒抜けになることさえ厭わなんだ)。そこまでの著者の見立ては、しかし我が貧弱な想像力を越えているため、俄かにはフォローし難いものがある。

 さて、日本の敗色濃厚となった19452月(終戦の半年前)、近衛は天皇に対し上奏文(意見具申書)を提出。その骨子は、①たとえ米英に負けても国体は護持できそうだから、恐れるに足らないが、②機に乗じたソ連主導の赤色革命に備えることが大切で、③軍部内にも彼らに同調するグループ(統制派)がいるので、その対策も急務、というもの。

 天皇はこの近衛提案を受け入れることは無かったが、それでもなお著者によれば、この文書を残すことで戦争責任を共産主義者と一部の軍人に転嫁しようとの、近衛のしたたかな計算が秘められているという。という次第でいよいよ敗戦を迎えるのだが、それについては次稿に委ねることとしたい。

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2023916日)


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僕の内なる太平洋戦争(その2) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(その2)

 生まれたのが終戦前年の昭和19年(1944年)だから戦中生まれには違いないが、当時赤子の僕には戦争の記憶は一切無い。まして生まれた場所は累々山重なる谷あいの寒村、空襲警報も縁の無い世界だった。以来78年生きたのに、先の大戦のイメージは群盲像を撫でるが如く頼りなく、ただ国を挙げて血迷った末、身の程知らぬ戦争に踏み込んだ、というもの。だから、今度読んだ『歪められた真実・昭和の大戦』(著者は軍事評論家の井上和彦)には驚いた。なにしろ、大東亜戦争の肯定的側面を見詰め直しているのだから。

《日本の戦争目的》

日本の戦争目的は二つ。一つは日本自身の自衛、今一つはアジアの植民地からの解放。一つ目の目的に対する僕の内なる疑惑は、GHQマッカーサー長官自身が帰任後1951年に行った議会証言(あの戦争は主として日本の安全保障のためだった)を知った時点で、僕の中では氷解している。そこで二つ目の目的(アジアの解放)だが、本書を読みながら改めて振り返り見ると、確かにアジアのすべての(それどころか全世界の)植民地が独立を果たしている。するってえと、負けたとはいえ、日本の戦争が(少なくとも)大きなきっかけになったと言っても、言い過ぎではないように思えてきた。

《国別概要》

    タイ: 当時殆どのアジアが植民地だった時代に希少な独立国だったタイ。そのタイが当時日本との間で「日泰攻守同盟条約」を締結し、大東亜戦争勃発後の19421月に米英に対し宣戦布告していたとは、全く知らなんだ。

    インド: 当時インドからマレー半島までの広大な地域は英領だったので、日本がマレー半島に上陸した時の敵は英軍とインド兵の混成部隊だった。この時多くのインド兵が日本側の捕虜となるが、日本は彼らに独立を勧め、結果5万人が日本の友軍となる。彼らはやがてチャンドラ・ボース指揮のもとインドを目指し、これが後に1948年のインドの独立に繋がる。

    ベトナム: 日本の敗戦時、日本に帰らずベトナムに留まって、宗主国フランスとの独立戦争に協力した日本兵は約600名。彼らは士官学校を設けてベトナム人を指導・教育、ともに戦い、1954年独立を果たす。

    インドネシア: 日本の敗戦時に帰国を選ばず現地に残留した者2000人。彼らは宗主国オランダとの独立戦争に加わり、うち1000人が戦死。4年半の戦いを経て1949年独立。  

インドネシアのくだりを読みながら突然のように思い出した。大学を出て商社に入った2年目、ジャワ島に2年間の長期出張を命じられ、赴任時に立ち寄ったジャカルタ事務所に日本人駐在員とインドネシア人に混じって一人中年の、現地雇用の日本人がいた。あとで誰かが教えてくれた、元日本兵で名前は樋口さん。濃い眉の、がっしりした体格の人だった。言葉を交わしたかどうかは記憶がない。たった一人だけの、僕の中の日本兵である。

202393日)

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