SSブログ

僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿その2) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿その2)

 平安中期に「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」と歌い、栄耀栄華に酔い痴れた藤原道長の子孫・近衛文麿は、公家特有の狡知に長けていただけに、真珠湾攻撃により米国との戦争が始まる以前に政権を返上、且つ、終戦半年前の19452月に、天皇宛て上奏文の中で戦争責任を共産主義者と軍部の一部に転嫁、もって自らの責任は回避できたと踏んでいたようである。ところが終戦から半年も経った頃、GHQから近衛に逮捕状が出され、19451216日巣鴨拘置所への出頭命令が下った。その前日は荻窪の近衛邸に近衛のブレーンが集まり、GHQによる尋問対策が練られた。その夜、近衛は頗る元気で、翌日からの尋問対策につき喧々諤々、議論を重ねる。

 ところが翌早朝、近衛は服毒自殺の姿で発見された。彼が休んだのは個室だったが、当夜は万一の場合に備え家族が気を配っていたし、集まったブレーンのうちの2人(松本重治、牛場友彦)が隣室に侍っていたにも拘らず、発見時には既にこと切れていたのであった。本書の著者は当時の状況を踏まえ、共産主義者の仲間を売った近衛に対する復讐の毒殺であったとの見方を採っているが、さて如何なものか。

 そして近衛の長男の文隆だが、陸軍中尉であった彼は終戦時にソ満国境でソ連軍の捕虜となり、戦犯として11年に及ぶ抑留生活の末、1956年の日ソ国交回復に伴う釈放の寸前、体調を崩し急死する。後に、アメリカに亡命した駐日ソ連諜報部員ラストロボフが米国上院で、文隆はソ連のスパイになることを拒否したため殺されたと証言。著者は言う、ソ連のスパイになったふりをして帰国した軍人が沢山いたのに拘らず、文隆は、父親の権謀術数に満ちた生き方とは真逆の生き方を選んでしまったのだと。

 写真は先日道端で見掛けた朝顔の花。子供の頃、田舎ではよく見かけたのに、大人になってから都会では滅多に見てはいなかった。懐かしさについ見詰めると、見つめ返されたような気がしたのは、きっと老いの錯覚だったろう。

IMG20230910095102.jpg

2023917日)


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感