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僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿) [読後感想文]

僕の内なる太平洋戦争(近衛文麿)

「近衛文麿」— 世が世なら手を出す筈も無い本だった。そもそも近衛文麿なんて、対米戦争直前の風雲急を告げる時期の日本の総理として名前こそ記憶の片隅に転がってはいたものの、一切関心を寄せた事もない。なのに手を出したきっかけは二つ、一つは現下のウクライナ戦争、もう一つはごく最近読み始めた歴史修正主義関連本の影響である。本書の著者もまた歴史修正主義者と言われる林 千勝(ちかつ)である。

 近衛家は、日本最大の貴族「藤原家」の流れを汲む名門中の名門。何しろ藤原家の始祖は、飛鳥時代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と謀り蘇我入鹿(そがのいるか)を滅した大化の改新(645年)の立役者中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、その功績により天智天皇から授かったのが藤原の姓であった。以来藤原家は摂政・関白を輩出するのみならず、多くの子女を天皇の妃として輿入れし(ために歴代天皇の母の四人に一人は藤原姓)、平安中期に藤原時代とまで呼ばれた時期があるように栄耀栄華の限りを尽くした。そんな名門の中でも近衛文麿はとりわけプライドが高く、貴族といえども天皇の前では直立不動の姿勢をとる中、彼だけは椅子に座り、時には長い足を組み、組み替えたと言われる。

 その近衛が、総理として日本の政治を取り仕切った時期こそ、我が国が支那事変から対米戦争に向かってひた走る4年であった。真珠湾攻撃(1941128日)の時点では近衛内閣は2カ月前に総辞職、東條英機に代わっていたが、もはや後戻りができない所まで事態は進んでいたのだ。即ち、我が国の歴史上最も危機的な時期が近衛内閣の時期に重なっていたと言っても決して過言ではない。なのに驚くなかれ、近衛の私的ブレーン「昭和研究会」に多種多彩なアカ(共産主義者)が入り込み、彼らは内閣府に職を得、或いは自由に出入りしていた。そして彼らを通じ日本中枢の情報がソ連、中国のみならず米国にも筒抜けであったこと。彼らの中には戦時中にリヒャルト・ゾルゲ(ソ連のスパイのドイツ人)に連座して逮捕され、絞首刑となった尾崎秀美(ほつみ)(もと朝日新聞)もいたが、これは例外中の例外であって、殆どは戦後に生き残り政財界、学会、マスコミ等で名を馳せた者が多い。

 著者が描く近衛の人物像は、限りなく陰険である。即ち、腹の中では彼はどだい日本がアメリカに勝てる筈も無いのでいずれは負ける、負けて、天皇制が廃止される暁に彼自身が日本に君臨、我が世の春を謳歌することを秘かに企んだ(そのためにこそ身近にわざとアカを飼い、情報が敵方に筒抜けになることさえ厭わなんだ)。そこまでの著者の見立ては、しかし我が貧弱な想像力を越えているため、俄かにはフォローし難いものがある。

 さて、日本の敗色濃厚となった19452月(終戦の半年前)、近衛は天皇に対し上奏文(意見具申書)を提出。その骨子は、①たとえ米英に負けても国体は護持できそうだから、恐れるに足らないが、②機に乗じたソ連主導の赤色革命に備えることが大切で、③軍部内にも彼らに同調するグループ(統制派)がいるので、その対策も急務、というもの。

 天皇はこの近衛提案を受け入れることは無かったが、それでもなお著者によれば、この文書を残すことで戦争責任を共産主義者と一部の軍人に転嫁しようとの、近衛のしたたかな計算が秘められているという。という次第でいよいよ敗戦を迎えるのだが、それについては次稿に委ねることとしたい。

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2023916日)


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