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ザ・プーチン 戦慄の闇 [読後感想文]

ザ・プーチン 戦慄の闇

 

 1991年末にソ連が崩壊すると、手元に残ったのは焦げ付いた巨額のソ連(ロシア)向け債権ではあっても、新規ビジネス・チャンスは絶望的だった。そしてソ連から生まれ出たアゼルバイジャン国の首都バクーに駐在した3年余の世紀末が、僕の商社人生の最後となった。新しい世紀が開けるとともに転職し、以来ロシアも旧ソ連圏も振り返るまいと決めて生きて来た。

 そして22年が経ったとき、ロシアが突如兄弟国のウクライナに攻め込んだので、仰天、何が何だかさっぱり分からぬまま参考になりそうな本を読み始めた。今度のはノンフィクション『ザ・プーチン 戦慄の闇』、著者はアメリカのジャーナリストのスティーヴ・レヴィン。ロシアによるクリミヤ併合の6年も前に出た本だが、ちょうどプーチンが大統領に初当選してから2期目を終えるまでの8年を対象に、ロシア政治の裏に迫る野心作のようである。

 それにしてもプーチン王国は長い。メドヴェージェフの傀儡政権(4年)を含めると、すでに20年以上の君臨だ。この物語が採り上げているのは、20002008年のロシアの裏社会で生じた主な事件(それもクレムリン、なかんずく連邦保安庁絡み)のうち、特にプーチンに楯突いた人々に起こった出来事に焦点が当てられている。例えばそれは、オルガルヒ(新興財閥)のボリス・ベレゾフスキーの亡命とロンドンでの自殺事件、或いはロシア連邦保安庁職員アレクサンドル・リトヴィネンコの亡命とロンドンでの放射能物質による毒殺、そしてウクライナ人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの射殺事件である。

 そのアンナが書いた『プーチニズム』の読後感想文を今月初旬、3回に分けてこの場に投稿したが、その時は知らなんだことを今度の本に教えられた。彼女は2006年、48歳の時、自宅アパートのエレベーターの中で何者かに射殺された。知らなんだのは、『ザ・プーチン』を締め括る次のようなことだった;

 「アンナ殺害前、娘ヴェラは女の子を妊娠していると知った。子供になんという名を付けるか、ヴェラもアンナも悩んだが、そのときは結論は出なかった。

 5か月後、子どもが生まれた。

 今度は迷わなかった。

 アンナ、と名付けられた。」

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2023329日)


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ウクライナ侵攻までの3000日 [読後感想文]

ウクライナ侵攻までの3000

 

 ロシアによるウクライナへの侵攻ほど衝撃を受けた政治的事件はなかった。それは壮年から中年に至る30年を、この2か国を含む旧ソ連との係わりの中で生きた時間のせいだと思う。それかあらぬか、侵攻が始まってから1年が経つうちに、関連する歴史書やルポルタージュを、いつの間にか6冊読んでいた。

今度読んだ『ウクライナ侵攻までの3000日』(大前 仁・著)は、これまで読んだようなアカデミックな読み物とは異なって、現役のモスクワ特派員が取材した生々しいレポートだった。ウクライナ現地での取材は、侵攻開始3年前の春から秋へかけ数回に亘って行われている。その頃は既に、ウクライナ領だったクリミアがその5年前ロシアによって強引に併合されたばかりか、ウクライナの東部と南部において、ロシアに支援された武装勢力とウクライナ軍との間で衝突が頻発。そんな時期に著者はキーウから陸路クリミアに入り首都シンフェロポリ、東端のケルチ等で取材、ウクライナに戻った後は東部の、その後激戦地となるマリウポリを経てドネツク等を廻る。後にはドニプロペトロフスク州や、ゼレンスキー大統領の故郷クリボイログ、更には西部のキーウ、リビウにも足を延ばす。

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著者は全編を通じ、政治家、軍人、親露派武装勢力、ロシア正教報道官、一般庶民の老若男女に問いかける。テーマは、ロシアを、プーチンをどう思うか?問われる側にとっても重た過ぎるこの設問を、著者が訪れる先々で問い続けるために、僕ら読者は様々な反応に触れることになる。

こうした生身の人々の声に加え、ウクライナ国民のロシアやロシア語等に関するいろいろな世論調査結果が時期ごとに変遷する様が紹介されている。例えばNATO加盟賛成者は、20217月時点では50%だったものが、ロシアによる侵攻後は一気に83%へと跳ね上がったというように。

この本の著者は、実は僕の母方の従弟である。読み始めは、妬ましさに心配と好奇心が入り混じり、なんとも複雑な気持であった。だが、読み進むにつれ従弟はいつか従弟ではなくなって、今からは4年前のウクライナに流れていた時間と、そこに住む人々の声を著者共々ひたすら追っていた。

この本『ウクライナ侵攻までの3000日』が上梓されたのは、今からは2カ月前の、著者が3回目のモスクワに特派されて間もない頃である。そして、同書の中で彼がウクライナを駆け巡ったのは4年前の2019年春とあるが、その年の11月に僕は当時仕えていた某官庁の仕事で最後のモスクワ出張の最中、ある夕方彼を訪ねている。奇しくもそこはスターリン・ゴシックで有名な『ウクライナ・ホテル』と道を挟んで隣り合うアパートだった。その晩、久し振りの出会いにしこたま酒を酌み交わした覚えこそあれ、ウクライナはウの字も出なかったと思う。何事も世に疎い我を従弟は慮ったのかもしれない。その頃の僕は、ロシアとウクライナは兄弟国でこそあれ、まさかすでに緊張関係にあろうとは、露ほども思っておらなんだから。

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2023323日)


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惜春賦 [巷のいのち]

惜春賦

 

 3月に入ると街のそこかしこで純白の、中には紫の花が咲き始めた。木蓮(もくれん)仲間モクレン科モクレン属)。モクレン花弁見上よう

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白いのは白木蓮(はくもくれん)か、辛夷(こぶし)見分しいコロナ時代繰り返散歩っち勉強った現物蘊蓄よう戸惑ったてい過去投稿2021311日付『蟹股(がにまた)人生写真高説たまわがい、「コブシハクモクレン見分ようったコブシ花弁6片で、花の向きはてんでバラバラ、ハクモクレンは9片で、花はみんな空を向く。ややこしいのは弊辛夷(しでこぶし)こい花弁1230枚もあるらしい。」

眼前に聳える高い樹の、花はいずれも慎ましげに空を向き、大事な花芯を隠している。これはきっとハクモクレンだと見当をつけた。

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別の場所で咲く白い花は、6枚の花弁を惜しげも無く開くその下に1枚の葉っぱを擁しながら、あられもなく黄色い花芯を曝け出す。これが多分コブシなのだ。

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別の日に少し遠出をした時に、6枚を遥かに越える白い花弁が、これまた花芯をこれ見よがしに晒していた。シデコブシのようだった。

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だが、その近くに咲いていた6片の白い花は、花芯も露わでコブシかと思ったが、高木と言われるコブシにしては、花が目線の下にある。妙に思って検索すると、コブシによく似て低木の田虫葉(たむしば)というがあようだ。コブシってというら、なあ。

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この春の詮索は以上である。こうしていろいろ揣摩臆測を重ねても、また来る春が仮にあるとして、そのとき記憶が蘇る保証はなんも無い。無いけれど、今はただこっそり念じよう、「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」―なあんちゃって。

2023318日)


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踊る菩薩(小倉孝保・著) [読後感想文]

踊る菩薩(小倉孝保・著)

 

 ある人のフェイスブックの投稿で『踊る菩薩』という本があるのを知った。踊る菩薩?訳が分からぬまま図書館に予約を入れたら、先約がいくたりか、人気がある様だ。そして忘れた頃に漸く届いたので手に取ると、半年前に出版されたばかりの新刊本。副題は『ストリッパー・一条さゆりとその時代』。何とそれは、ストリッパーの伝記だった。

 伝記と言えば、人生で初めて出遭った絵のない本が、偉人伝だった。山あいの小さな村の小学校の教室、そこの隅の棚に並んだ偉人伝の石川啄木、野口英世、マハトマ・ガンジー・・・素直に感動しつつ読んだ記憶がある。その65年後に手にしたのが、この伝記だった。本によると一条さゆりは、一世を風靡した希代のストリッパー。なのに、同じ時代に生きながら、そのことを知らぬまま老いてしまった我れ。彼女が68歳で没した26年前は、カスピ海の畔バクーの町に単身赴任、なんも知らずに生きていた。彼女は1929年(昭和4年)生まれだから、母と僕の中間の世代、母より9歳若く、僕の15歳年上だった。

 どんな偉人も敵わぬ凄まじい人生物語である。日本が戦争に向かって歩み始めた時代にキューポラ(鋳物の溶解炉)の町(埼玉県川口市)の鋳物職人の家に生まれたが、7歳で母と死別、継母に苛められた戦時下、15歳で家出する。戦後最初はパンパンになり、次いで女給をやり、最後にストリッパーとなるや、一躍「特出しの女王」として名を馳せる。

サービス精神が旺盛で、とにかくお客を喜ばせることに意を尽くす。例えば、こんなやり取り、「一条さんも目を合わしてはるんですか」、「あたしは一人一人と目を合わせて踊るようにしているの。みんなあたしを彼女(恋人)やと思うてるんやから」。彼女の動きに合わせて、客席が波を打ち、どよめく。客が喜べば喜ぶほど、演技に一層の熱が籠る。

 一条さゆりは、しかし余りにも有名になり過ぎて、検察から目をつけられ、公然猥褻罪で逮捕されること9回に上り、ついに引退を決意し、1972年引退興行を行う。ところがこの引退の舞台でついサービスを尽くしたため、大阪府警に踏み込まれ、今度は懲役の実刑を食らう(それまでは罰金刑で済んでいた)。

 刑務所から出所後も、泥酔した挙句の痴話喧嘩やら交通事故やら放火による火傷やら、波乱万丈が続いた後、最後は大阪市西成区釜ヶ崎のドヤ街の三畳一間に落ち着く(生活保護者として)。それもしかし長くは続かなかった。長年にわたる荒んだ生活により糖尿病を患い、1997年肝硬変により68歳で他界。

 池田和子(さゆりの本名)は晩年、釜ヶ崎の住民や労働者とも親しく優しく付き合った。それかあらぬか、近親者のいない葬儀の日、降る雨の中、読経を外で聴き合掌する人(殆どが喪服ではなく、作業着かジーンズ姿)が百人ほど、中には傘も無く濡れそぼる人もいたらしい。ストリップ劇場の客や市井の恵まれぬ男たちにとって、一条さゆりはやっぱり菩薩だったのだ。

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2023314日)


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老兵 天空の午餐 [忘れ得ぬ人々]

老兵 天空の午餐


 


 高田馬場の決斗の明くる37日の昼、今度は新宿住友ビルの47階にある東京住友クラブの座敷に座っていた。掘りごたつ式の座卓に集う5人は、昔とある商社で共に働いたことのある老人たち。皆々還暦などとっくに過ぎて、古希を超え、喜寿を超え、傘寿を超えた者もいる。コロナの3年を生き延びた彼らが出会うのは、ほんに久しぶり。なのに、挨拶もそこそこに異口同音、口を衝いて出る言葉はロシア、ウクライナ、プーチン・・・・。それはしかし、仕方もないことだ。いずれも大学ではロシア語を学び、世に出ては一貫してソ連(ロシア)との取引に携わり、何年も何回もモスクワに駐在、同じ釜の飯を食い合った仲だ。その昔、社内ではロシア通として通っていた。だが、その彼らにしても、兄弟国にしか見えなったロシアとウクライナが、まさか血で血を洗うような死闘を始めようとは予想もつかぬことだった。


 ロシア通?・・・・しかし振り返ってみると、僕などは長年ロシアに住んだと言っても、ロシアとロシア人についてどれだけ知っているかとなると、甚だ心許ない。体制の異なる国の間に透明の鉄のカーテンがあったように、僕とロシア人の間にもまた見えないバリアがあった。外人が住むのは、衛兵が見張る外人専用アパート。駐在員事務所が雇うロシア人のローカル・スタッフは例外なくロシア外務省所属の派遣社員。体制が異なる者同士の付き合いは貿易取引上必要な範囲に限定され、たまの接待で酒を酌み交わす時であれ、せいぜい他愛もないアネクドート(一口噺し)で相手の心を擽るぐらいが関の山だった。


 そのうえ僕に限っては、机の上でさえロシアの歴史も何もろくに勉強もして来なかったから仕方もないが、何もかも分らぬことだらけなのだ。プーチンに対するロシア人の従順さもその一つ。選りに選って資本主義が未発達だったロシアで何故社会主義革命が成功し、結果全体主義が70年も続いたかもその一つ。それともこの二つには通底するものでもあるのだろうか?


 それはともかく、地上47階の天空の午餐は談論風発、酒を舐め、肴を食らう間もあればこそ、嗄れ声が飛び交った。だが、やがて、老兵は死なず、消え去るのみと言うように、別れを惜しみつつも、足元が明るいうちに家路に就く我らだった。


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2023310日)


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決斗高田の馬場 [巷のいのち]

決斗高田の馬場


 


 心肺機能に基礎疾患を抱える高齢ゆえにコロナ上陸以来、外出を避けてひたすらアパートに籠り、散歩に出た僅かな間もひとを見たらコロナかと、なんとも失礼な目付きをして徘徊していた。そして3年が経ち漸く世の中が緩み始めた一昨日、今を去る56年前(1967年)に同じ商社に入社した同期の桜4人が集まったのは高田馬場の雀荘だった。入って驚く、平日の昼下がりなのに中高年の男女でほぼ満卓、コロナも糞もあるものか、むき出しの口からリーチやロンの声が飛び交っている。


卓を囲むのは久し振りだった。学生時代、悪友たちが二晩ぶっ続けの徹マン打つのを眺めて覚えてからは、のめり込み、商社時代も接待麻雀含め2030歳代はよく打った。しかし40歳を超えた頃、勝負は面白くとも、最後のお金のやり取りが何だか空しくなってきて、徐々に遠ざかった。てな次第でその世界からは実質30年以上足を洗っていたのだが、商社時代の友また様々、いくら老いても、手術で身体を刻まれても、なお仲間と雀卓を囲みたがる奴もいた。


今世紀も20年が過ぎたある日、そんな彼らから挑戦状が届き、受けて立ったのが2020218日のことだった。高田馬場の今日と同じ雀荘で卓を囲んでの四騎討ち。戦いの後は近くのヘギ蕎麦屋で一献傾けつつ、旧交を温めた。以来コロナのため中断していた決戦が一昨日の36日漸く実現したというわけである。勝敗はともかく、昼過ぎから夕方までの数時間、取ったり取られたりしのぎを削ったあとは、やっぱりヘギ蕎麦屋に場所を移して狂い酒を舐めつつ、お互いの来し方を振り返った。思い出の大部分はそれぞれが駐在したところの外国ばなし。台湾、南京、香港から始まりトルコ、パキスタン、ロサンゼルス、モスクワ、バクーへと、夢物語は果てしない。


狂い酒のせいでもなかろうが、悪友たちのしぶとさには驚いた。A君は、冠動脈が90%塞がったため、心臓を取り出す手術で助かった。B君にはもっと驚く。以前聞いたことがある、最初の膀胱癌のあと数年を経て尿管癌を発症し切除の上、抗癌剤治療を続けたが転移止まらず、ために11年前、腹部全域のリンパ節34ヶ所を切除したことを。しかしこの日、まるで他人事のように語るのだ、去年になって前立腺癌が見付かったのでX線で治療云々と。今じゃ、やけのやんぱちで生きていると言うけれど、焼酎を舐める顔色は昔ながらのいい男。とんでもない奴だなあと、ただ恐れ入るしかないのだった。


そんなこんなで21世紀2回目の果し合いが終わった二日後の今日、これを書きながら


ふと、子供の頃観た時代劇の断片シーンが頭を過ぎった。主人公はのちに赤穂浪士の一員として吉良邸に討ち入る堀部安兵衛。その安兵衛が恩ある人の助太刀に駆けつけたのが高田の馬場だった。ウイキペディアを覗くと、それはどうやら歴史的事実のようだ。時は元禄7年2月11日、西暦では196436日とある。えつ、と思った。僕らが高田馬場で闘ったのも3月6日だったのだ 


202338日)


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もう一人の隣人 [映画感想文]

もう一人の隣人


 


 酒が入る夜は本はやめ、何か面白そうなのはないかとパソコンでYouTubeの番組を探す癖がついた。昨晩目に飛び込んで来たのはスヴェトラーナ・アレクシェービッチの名前。すっかり忘れていたが、2015年にノーベル文学賞をもらったベラルーシの女性ジャーナリストだ。翌年2016年に彼女の有名なルポルタージュ「チェルノブイリの祈り」(邦訳)が出たので読んだら、よほど感動をしたものか、電子書籍で原書「Чернобыльская Молитва」に挑戦、読み終えたのは20181月だった。随分時間がかかったけれど、ロシア語の本を読み切ったのはそれまでの73年の人生で初めてのことだった。遥かな昔、大学でロシア語を学んだ時、トルストイの「復活」を読もうと高い志を抱いたこともあったが、最初の数頁で挫折、以来ひたすら謙虚に生きて来た。


 YouTube225日に放映されたTBS報道特集DIGで、「ロシアはなぜ“戦争”をするのか」というタイトルで金平茂紀キャスターの質問にアレクシェービッチが答えるものだった。


   https://www.youtube.com/watch?v=UwMIhmSHVbo


 固唾を呑んで観入った。というのも、一年を超えて続くウクライナでの攻防戦につきこれまでに見聞きして来たのは、多くが西側メディアからの映像、或いはウクライナ側からの発言であり、時々はプーチンやラブロフ外相の声明であっても、両国と境を接する、双方にとっの隣国ベラルーシの人々が一体事態をどう受け止めているのか、さっぱり分からなかったためである。1100年以上前にスラブ系国家キエフ大公国が歴史に現れた時、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは一つの国で、その治世は350年以上も続いた。そのうちの2国が血みどろの死闘を繰り広げている今、もう一つの隣国が一体どんな気持ちでそれを見ているのか、どこか気に懸かっていたからだった。


しかし、二人のやり取りを観て何にも知らぬ自分に気が付いた。アレクシェービッチはベラルーシ人ではなかった。父はベラルーシ人でも、母はウクライナ人だった。また、彼女は反体制派と見られているようで、「チェルノブイリの祈り」は自国では出版されておらず、自身は2年半前からベルリンに滞在、どうやら亡命生活を余儀なくされているようだ。だから彼女の見解が、そのまま一般的なベラルーシ人の見方と言えるかどうかはともかく、次のような言葉が心に響いた:


    ベラルーシは戦争の当事者である。何故ならウクライナに侵攻するロシア兵、戦闘機、戦車はベラルーシにも駐留、駐機するし、傷病兵はベラルーシの医療施設でも治療される。


    ベラルーシは占領されている(ロシアに、とは敢えて明言せず)。


    ベラルーシ人はこの戦争に反対である。兄弟国のウクライナと戦うわけにはいかない。しかし、それを広言することはできない。すれば、10年以上牢獄に入れられるから。


 


最近とみに物忘れが激しくなった。20181月に「チェルノブイリの祈り」の原書を読破した後、味をしめた我れ、もう一つの代表的なルポ「戦争は女の顔をしていない」の原書に挑戦、感動しつつ読み進めた微かな記憶はあるものの、読み切ったか否かの覚えが欠落している。けど再挑戦は、時間的に無理がありそうだなあ。


 


今日、巷を散歩の途中、道端の茶色っぽい樹の幹に黄色い花が萌え出していた。アパートかマンションの狭い庭だった。スマホに収め検索すると、檀香梅(だんこうばい)った山茱萸(さんしゅゆ)蝋梅(ろうばい)ったと、グーグルっていな、思案てい、「かお?」顔上マスク姿凝視ていつい「名前、「山茱萸す」。入口かうかい有難御座ったさえじゃった。


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202335日)



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プーチニズム(完) [読後感想文]

プーチニズム(完)

 

 アンナ・ポリトコフスカヤがこの本で語る事件の多くは、チェチェン紛争に係るものである。例えばそれは、ロシア人将校によるチェチェン人女性の凌辱・撲殺であり、或いはモスクワの劇場で起きたチェチェン人武装グループとロシア治安部隊との衝突。後者のケースでは、200210月、モスクワのノルド・オスト劇場に立て籠った42人のチェチェン武装グループが観客922人を人質に取り、ロシア軍のチェチェンからの撤退を要求。その3日後、ロシア連邦保安庁(旧KGB)の特殊部隊が劇場に特殊ガスを吹き込んだ後で突入し、チェチェン人全員を射殺。だが人質は、子供を含むほとんどがガスにより意識を失い、129人が帰らぬ人となった。

 ポリトコフスカヤはルポルタージュを締め括る最後で語る、「どうして私はこれほどプーチンが嫌いになったのか?はっきり言おう。それは重罪より性質(たち)の悪い単純さ、シニズム、人種差別、嘘、果てしない戦争、ノルド・オスト劇場占拠事件で使ったガス、彼の一期目を通して続いた罪のない人々の虐殺のためだ。なくてもすんだはずの多くの死体のせいだ。(中略)私がプーチンを嫌いなのは、彼が人びとを嫌っているからなのだ」。

 この本を読み終えてつくづく思う、本のタイトルはやはり原題の「プーチンのロシア」の方が相応しいのではないかと。何故なら、著者はプーチンひとりを責めているわけではない。彼を選び、そのやり方に唯々諾々と従うごく普通の市井のひと、その人たちに必死に訴えているように思えてならないからだ。

 いや、この本が出版されてから18年が、そして著者が殺されてからも16年が過ぎている。仮に彼女の見立てが正しかったとしても、それからの長い年月の間にロシアとロシア人は変貌を遂げているかもしれない。そのあたり、不勉強な自分には判断もつかないが、今、兄弟国のようなウクライナを攻めるロシアを目の当たりにすると、ついポリトコフスカヤが語ったチェチェン紛争を連想してしまう。

 さて、ロシアに棲んだウクライナ人のポリトコフスカヤが逝って16年が経つ。今にもし生き永らえていたならば、筆盛りの64歳はいったい何を書くのだろうか。

 

 写真は、この冬最後の児童帰宅パトロールの日(2月末日)、小学校の校庭で見た沈丁花(じんちょうげ)

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(2023年3月4日)

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プーチニズム(その2) [読後感想文]

プーチニズム(その2

 

 今世紀初頭、約20年前のロシアに生きていた著者ポリトコフスカヤ(ウクライナ人の女性ジャーナリスト)は、彼女の目から見て当時ロシア社会の各界を蝕んでいると思われた病巣を摘出、英国で『プーチンのロシア』を出版、世に問うた:

【政界】プーチン大統領就任後、KGB出身者6000人以上がロシアの最上層部に犇めくようになった(ソ連時代への回帰)。

【財界】国営企業の民営化に伴う破廉恥な億万長者の出現(権謀術数による乗っ取り、汚職の蔓延)

【軍隊(特に上層部の将校)の堕落】①チェチェン人は悪者だからすべて殲滅すべきという空気②民間人に対する残酷な振舞⓷軍人は法の埒外に置かれ、重罪を犯しても不起訴となる傾向

【司法】司法は実体として独立しておらず、ただ政治家にへつらう存在でしかない(ロシア人将校によるチェチェン女性強姦・虐殺事件等、多数の証言を紹介)

 

 文中、刮目した点多々あるが、そのうちの三つを紹介すると:

    180頁:本当に不思議だ。共産党が倒れてもうずいぶんになると言うのに、昔の習慣がまだそのまま残っている。(中略)国のために誠実に働く人に感謝することを政府は学んでいない。一生懸命働いているか。そうか、よろしい。そのまま続けよ。くたばるまで、心が壊れるまで。(中略)ロシアにとって共産主義が貧乏くじだったのはたしかだが、現在はそれよりひどい。

    355頁:プーチンは一部の人間の所業に対して民族全体が責任を負うべきだと信じている。そしてロシア人の多数派はこのプーチンの考えをもっともだと思う。しかし、わからないことがある。もう何年も続く戦争にもかかわらず、テロ行為にもかかわらず、大惨事や難民の波にもかかわらず、当局がチェチェン人から何を得ようとしているのか。それが誰にもわからない。彼らはチェチェン人が連邦内に留まることを期待しているのだろうか。それとも、そうではないのか。

    360頁:(弊注:モスクワの学校に通うチェチェン人の子供が学校で苛めを受け、保護者会のロシア人の親たちもそれを当然視する事例について)二十世紀に、これと同じように始まったけれど、異なる結末をもつある出来事を思い出してみよう。ファシストがデンマークに侵攻したとき、すべてのユダヤ人は着ているものに黄色い星のワッペンを縫い付けるように命令された。そうすれば、すぐに見分けがつくからだ。するとデンマークの市民は誰もがただちに黄色い星を縫い付けた。ユダヤ人を救い、自分たちもファシストにならないために。国王も国民の行動を支持した。しかし今日のモスクワの状況はこれとは正反対だ。当局が私たちの隣人であるチェチェン人を虐待したとき、私たちは彼らを助けるために黄色い星を縫い付けはしなかった。あろうことか、私たちはこれとはまるで逆のことをした。

 

日の短い冬場限りの学童帰宅パトロール稼業も2月末をもって終了した。パトロール3回目の冬だったが、この冬は風がめっぽう強かったので老骨には一番堪えた。そんな中、しかし梅が咲き始めた。写真の赤いのは我がアパートの庭の、白いのは学童集う学び舎の。 『梅一倫 一輪ほどの 暖かさ(服部嵐雪)』

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202333日)


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プーチニズム(その1) [読後感想文]

プーチニズム(その1)

 

 とんでもない本に出遭ったもんだ。仲間内で“怪人”と綽名される旧友が偶々見つけたというノンフィクション「プーチニズム(アンナ・ポリトコフスカヤ著)」を、我も負けじと図書館から借り出して読んで、おっ魂消た。全編これ凄まじいルポルタージュだらけ。舞台は今世紀初頭のロシア。それは、赤色帝国ソ連の崩壊から生まれ出た新生ロシアが資本主義と民主主義の大海で混乱を極めた10年後、ついにKGB(ソ連国家保安委員会、通称「秘密警察」)出身のプーチンを大統領に戴いてすぐの時代だった。

 当時ロシアは、ウクライナ他の旧ソ連内各共和国が独立して去った後というのに、自国内の北コーカサスにあるチェチェン自治共和国(イスラム教国)が独立運動を展開したため、それはならじと、チェチェン人を徹底的に弾圧していた。著者のアンナ・ポリトコフスカヤはウクライナ人の両親から生まれた40代の女性、ロシアの新聞ノヴァヤ・ガゼタ誌の評論員としてチェチェン紛争を取材。「プーチニズム」は、その生々しい記録である。

 読みながらこんなにもはらはらし通しだった記憶は、ついぞ無かった。ルポの現場は常に紛争の最前線で、それはチェチェン現地の虐殺現場の村や、ロシア軍の前線であり、テロで数百人が死亡したモスクワの劇場であり、戦争犯罪を審理する裁判所である。問う相手は千差万別、或いはチェチェンの村人や被疑者のチェチェン人テロリスト、或いはロシアの兵隊や幹部将校、或いは犯罪を審理する検事、弁護人から裁判長まで。著者は現場の証言を求めて、いくたびもチェチェンやモスクワの現場に飛ぶ。ばかりか一度ならず、チェチェン側武装勢力を説得するための仲介役を買って出ようとして、ある時などチェチェンに向かう機上で毒を盛られ、命を落としかけたこともあった。

 著者ポリトコフスカヤはこの本の中で幾度となく、プーチン体制を厳しく批判。ゴルバチョフからエリツィンへと続いた独裁政治から民主主義への流れを、再び独裁へと回帰させようとしているというのが批判の理由である。同書が書かれたのは今を去る19年前、そして出版されたのは同年10月、書名はPutin’s Russia』、場所は英国。ロシアでは今なお出版されていないようだ。

 出版からまる2年経った2006107日、ポリトコフスカヤはモスクワの自宅アパートのエレベーターの中で射殺体で発見された。その日は偶々プーチン54歳の誕生日だった。

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202332日)


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