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恩師の宿(完) [忘れ得ぬ人々]

恩師の宿(完)

 

 正月が明けて間もない頃、ふる里の村に住む小学校の同級生から電話があって、5年~6年生の時の担任だった髙橋 勇 先生(92歳)が亡くなったことを知った。僕にとって忘れられないというか、僕の人生を10代で一変させた先生だった。この人に出会わなければ僕は多分中学か高校を出て就職、家の後を継いだ今頃は山仕事か野良作業に(いそ)しんでいたと思う。商社やロシアとは異質な世界に住み、交友関係もガラリ変わっていたはずである。以前の投稿(2021717日『恩師の宿』)でも触れたように、小学生時代の僕はとにかく勉強が出来なくて、通信簿は3以下がほとんど。ところが5年になったら大学を出たばかりの髙橋先生が担任として登場し、ある日のこと、何か本を読んでその感想文を書いて出せと言う。その時自ら選んだのは図書室の偉人伝の確か『石川啄木』。読んだかどうかも定かでないが、ただ巻末にあった後書きのようなものをそのまま引き写して提出した。

 後日の授業中、先生が何かを喋っているが、いつものように我は関せず、空想の世界に浸っていたところ、先生の声の中にいきなり僕の名前が出て来たのではっとした。なんと僕の読後感想文をべた褒めし、これは凄い、小学生にこんな文章が書けるなんて思いもよらなんだ、このまま行くと末は芥川賞か直木賞か?・・・・ひとに誉められたのは初めてで、恥ずかしかったけれど、それ以上に嬉しかった。

 それからである。図書室の偉人伝を次から次へと読み始め、学年が進むと国木田独歩やら夏目漱石にも手を出していた。すると通信簿の評価がどんどん良くなり、殆どの科目が最高点の5になって、卒業式が近付いた頃髙橋先生に呼ばれた、「卒業式には君が答辞を読め、書き方を指導するから今度家に来い」。それで訪ねて行った先が、隣町の “さくらや”、木曽川源流の益田川に臨む温泉旅館、先生はその旅館の跡継ぎ息子だった。

 “さくらや”に初めて投宿したのはその60余年後、ふる里の特養ホームに住む母を訪ねる前日のことだった。主人は、とっくの昔に教師を辞めていたかっての勇先生、但し“さくらや旅館”の看板が“国民宿舎さくらや”になっていた。このとき先生が80代なら生徒は70代。60年を超す歳月は互いの人相も声色も変えていた。

 後年、コロナが流行り始めると母への面会が不可能になったが、まる2年が経過した頃、15分に限り面会可との知らせを受けたので、ふる里に向かい、再び投宿したのが同じ恩師の宿だった(2021714日)。当日はコロナのため他の宿泊客はゼロ、ために大広間での夕食は、畏れ多くも恩師(90歳)と奥方(89歳)を前にして戴きながら、奥方に運んで頂いた燗酒を、時には師弟で戴くという、勿体ないほどの時間であった。

 明くる朝のバスで村に入り、半時間村道を登って母に会った。掛け替えのない15分だった。101歳で母が逝ったのは、その5カ月後。・・・・そして僕の人生の方向を大きく変えた恩師の旅立ちは、その2年後のことだった。

白黒写真は、1957年小学校卒業記念写真(恩師は右中ほど、僕は後列左端)、カラーは2021715日、恩師ご夫妻と。

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2024211日)


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