露伴の一族 [読後感想文]
露伴の一族
そんなこんなでここ暫く、露伴一族の間を行ったり来たりしている。当の露伴については『五重塔』を読み始めたら、のっけから文章がなかなか終わらないのに業を煮やし投げ出したが、娘の文と孫の玉のエッセイを、あっちを齧りこっちを舐めて忙しい。僕にしたら文は祖母の世代で没後30年以上が経つが、玉は我が母より若く、数えると今94歳ぐらいか、いずこかで存命のはずである。そして玉の娘・青木奈緒(エッセイスト、61歳)になって初めて我より若い世代の登場となる。手元に今彼女のエッセイ集『うさぎの聞き耳』があるが、なぜか手を出しかねている。若さが、まさか怖いのだろうか?
過日図書館で『シルバー川柳(人生ブギウギ)』というのが目に留まり、思わず借り出していた。60歳以上が詠んだ川柳集だった。うち3首を紹介したい。
♢ 黄泉の国 産んでみたいな 翔平を (衣鳩智恵子 77歳)
♢ イケメンの 介護来る日は 遺影伏せ (清水 潤 70歳)
♢ 来世も 一緒になるほど バカじゃない (白坂昌子 71歳)
(2024年5月14日)
露伴の孫 [読後感想文]
露伴の孫
幸田露伴の血筋が書いたエッセイを読んだ初めは、露伴孫娘の青木 玉の『小石川の家』だった。その後は、玉の母親・文のを3冊読んで、そして再び玉に戻り、今度読んだのが『帰りたかった家』。タイトルを見て、てっきり祖父・露伴の家のことかと思ったら違った。玉が未だ小学生の頃まで世に在った父と過ごした束の間の、親子3人暮らしのことだった。父は日本橋の裕福な老舗酒問屋の3男坊、兄弟2人同様慶大卒業後アメリカに留学したハイカラ族で滅法気は良いが優柔不断、妻・文の必死の支えを得て酒屋を営むが、玉が生まれる1929年の世界大恐慌の余波を受けて本家が倒産、ピンチのさなかに結核に罹り、にっちもさっちもいかなくなって1937年頃(玉8歳の頃)父母の離婚により父を失う(父はその4年後、玉12歳の頃に病没)。
いやあ、この本を読み始めた最初の内は迷いがあった。そもそも自分はおのれ大事、家族大事で人様のことなど歯牙にもかけぬ性格である。道行く人はただの行きずり。若い頃は一段と傍若無人で、雀を捕らえて焙って食うは、足元に蟻が這おうが避けもせず踏みつけても構やせなんだ(蟻を見て、踏まないように避けるようになったのは、ついこないだのことなのだ)。まして露伴は歴史上の、その子も孫も遥かに遠い人たちだ。人生の残り少ない時間をわざわざ割いてまで、縁もゆかりもない彼らのエッセイをなぜ読もうとするのか?
ほんに齢はとりたくないもの。『帰りたかった家』を読む途中その家がどんな家か知るほどに、とても他人ごとは思えなくなって、なんど心で泣いたことか。そして読み終える頃ふと思い出したのは、玉が『小石川の家』の最後に載せていた一文。それは母親の幸田 文が86歳で亡くなった時、火葬場から帰る喪主の玉の胸に湧いた次の言葉である(3月9日付投稿『小石川の家』で既に紹介済み): 「小一時間で母はすっかりこの世の苦行から解き放たれた姿になって、小さな壺を充たし桐の箱に納まって袈裟のような房付きの袋を着て私の手に抱えられ帰途についた」。
幼くして母が病死したため、露伴の薫陶を受けて育った文の才気煥発的文章に比べると、その子の玉の書く文章にはどことなくおっとりした温かみが感じられてならない。ひょっとしてそれは、優しくも優柔不断な父の血によるものだろうか?
(2024年5月13日)
露伴の娘 [読後感想文]
露伴の娘
ふとしたきっかけで青木 玉のエッセイ集「小石川の家」を読み、面白かったので祖父である明治の文豪・幸田露伴の「五重塔」を読み始めたら、のっけから一つの文章がなかなか終わらないのに業を煮やしギブアップ。んで次に手を出したのが露伴の娘の文の短編だった。父に比べれば簡潔な文章ながら、やたら難解な言葉遣い、こちとら劣等感を抑えつつ、スマホの辞書的機能に助けられ何とか読み終えた。そのうち玉の娘(文の孫、露伴のひ孫)もまた物書きであることを知ると、同じ血を追い下ってみようかと思い立った。
だが人生はままならぬもの、次に読んだのは『精選女性随筆集』という名の、またも文である。明治生まれの彼女は、傘寿(数え80歳)の僕からすれば母よりは祖母に近く、更には文豪露伴の薫陶を受けた語彙が余りに豊かなためなんどスマホに尋ねたことだろう。風趣風韻(風流な趣き)、格物致知(深く追求し広く知る)、柄漏り(雨が傘の柄をつたって漏る)、気が煎れる(いらいらする)等々。
数あるエッセイの中、特に心を掴まれたのは『金魚』と『午前2時』、いずれも小さな生き物との出遭いの作品である。金魚は、例の夜店で買う奴、10匹買ったらもう1匹がおまけで付いて来た。このおまけが、しかし家族の誰もが「おまけ」では可哀想過ぎると言って一番の人気者になる。普通は数日で死ぬものが、この11匹は20日を過ぎてなお元気。しかし或る日、とうとう2匹が死んだ。死んだのはおまけともう1匹。おまけは分ったが、もう1匹がどれだったのか、家族の誰にも見分けがつかない。11匹みんなを可愛がっていたはずなのにおまけの他はどれが死んだのかさえ分からない、その不条理さに胸を衝かれる家族の様子が淡々と語られる。
『午前2時』は、鼠との出遭い。寝静まった夜中に文が仕事をしていると、幼い娘が起きて来てトイレに鼠が居るので用が足せないと言う。行ってみると、なるほど鼠が居て、追い払ったら臭いウンチが残っていたというだけの短い話し。面白かったのは、場所を弁えた鼠の大事な場面に踏み込んだ迂闊を悔やむ著者の心の動きだった。瞬間つい連想したのは、鼠ならぬ猫のこと。前世紀末の14年間、我が家にいたモスクワ生まれの2匹の猫はトイレの中どころか便座に跨って用を足した。1匹は1996年、僕がアゼルバイジャンのバクーに単身赴任する直前世を去り、もう1匹は翌年、赴任中に亡くなったが、最後の最後まで人間トイレに固執したことを女房からの便りで知った。亡くなる当日も何とか立ち上がり、よろよろとトイレに入ったが、どうしても便座に上がれない。見かねた女房が抱き上げてベランダに運びタオルの上に置いて、そして頼んだそうだ、「よう頑張ったね、偉いよ。でも、もういいからここでして頂戴!」。
下に掲げる2匹の写真は以前にも紹介したことがあり、草葉の陰から「2度も公開しおって!」と唸られそうだが、珍しい風景と思うので再掲したい。
(2024年5月8日)