貴様と俺とは同期同宿の桜 [忘れ得ぬ人々]
貴様と俺とは同期同宿の桜
写真の5人は、今からは57年前に学校を出て同じ商社の同じ独身寮に住み、ともに青春を謳歌した(と思い込んでいた)5人である。同期入社120名中14名が埼玉県に間近い北多摩の保谷寮に寝起きした。中でもこの5人、なぜか行動パターンが似通って、平日の夜は乗換駅の池袋にあった「赤い風車」なるバーに座っていたり、日曜ともなれば、寮内に響きわたる管理人のマイク、「皆さんお早うございます。雀がピイチクパアチク鳴いてます。今日は絶好の麻雀日和です。」に誘われ、幾たび鎬を削ったことか。
この日の出会いの場所は、歌舞伎町の新宿プリンスホテル。すぐ見つかると高を括ったのが大間違いで、新宿駅を出ると半世紀前慣れ親しんだ街とはまるで別世界の高層ビル群。店先に立つ売り子に道を訊くも皆んな首を横に振る(日本語が通じない)。
漸くたどり着いたホテルのカフェー。老人話しは歴史をどこまでも遡り今度もまた新入社員の頃通い詰めた「赤い風車」の話しになって、或る晩などは二人して飲んでいたら最終電車を逃したので、つい逆さクラゲにしけ込んだ。別々に敷かれた布団の一人がわざと「こっちへ来る?」と言った時、相方が驚いたのなんのって・・・。入社の年の、クリスマス・イブのことだった。
あの時代、いつも金が無うてなあ、よう会社の共済会から借りたもんだ、と誰か言うので驚いた。この半世紀以上何故か思い込んでいたのだ、上司の許可を得て給与の前借などしたのはきっと僕ぐらいのものだろうと。それを言うと、件の友に鼻で笑われた、「俺なんかしょっちゅう目一杯借りていたぜ」。
同期同寮は14人。しかし時の流れが4人を異界へ連れ去ったため、今も世に残るのは10人であるが、ここに集まった5人も、しかし80年の歳月の間には満身瘦躯、中でも3人は大手術の果てに今がある。一人は胸を裂き人工心臓で凌ぎながら冠動脈の手術を受け、別の一人は尿道癌で左尿管と腎臓の一つを摘出するとともに、腹腔内34ヶ所のすべてのリンパ節を切除、のみか最近に至り更に前立腺癌が見付かったため、X線治療を受けている。そして3人目は、難しい膵臓癌はうまく切除できたものの、その後遺症で血糖値の抑制が出来なくなったために、毎日4回のインシュリン注射が欠かせない。
夕刻が迫ったので、食前のインシュリンが待つ一人(見るからに後ろ髪が引かれているような風情の一人)と別れ、歌舞伎町の居酒屋に座って若い頃の話しに戻る。酒が五臓六腑に沁みわたる頃だった、とある中年の女性が僕らの席の傍に立っていた。そして問い掛けられた、一体どういうお仲間でしょうか、教えて頂いても宜しいでしょうか?と。誰かが答えると、そのひとの眼にみるみるうちに涙が溢れた、「すみません。つい父を思い出してしまいましたので・・・」。— 一瞬、一同言葉を失った。見ず知らずの他人に泣かれたのは、人生初めてのことだった。
(2024年4月24日)
決斗高田馬場(2024年春) [忘れ得ぬ人々]
決斗高田馬場(2024年春)
昨4月3日春爛漫の昼下がり高田馬場は雀荘OZの雀卓を囲む4人は、57年前同じ商社に入社した同期の桜、いずれも傘寿を越えたか越えぬかの、若者から見れば妖怪の類い。このメンバーで腕を競うのは去年の3月以来4度目、かってはタイ、トルコ、中国、ロシア等世界に雄飛したつわものも、或る者は何度も腹にメスを入れ、また或る者は心臓を取り出す手術を経て今に至る。
我自身若い頃麻雀に夢中だった時期は、ある。商社新入社員時代の日曜日に独身寮で寝ていたら、管理人の館内放送で目が覚めた、「皆さんお早うございます。今日はいい天気、雀がピイチクパアチク鳴いてます。絶好の日和です」。それは、麻雀室が寂しがっているので如何かという誘いの声であり、同時にまた、メンバーが足りない場合は喜んで自分が入りますという意味を言外に含む声でもあった(管理人は、思えば変わった人で、自己紹介の時、梅毒か淋病かに罹ったことがあることを誇らしげに語る癖があった)。
麻雀からすっかり足を洗ったのは40代、なのに2020年が明けた頃、同期入社で件の寮の同宿者から、久し振りに雀卓を囲もうと誘いがあると、あれよあれよという間に場が成立、同期4人が高田馬場のOZに集まった。友にまみえるのも久し振り、まして麻雀牌に触るのは約30数年振りのことだった。
さて昨日で今世紀牌に触るのが5度目の我れ、記憶装置も老化して、今誰が親で誰が子か、敵方の教えを乞いながら必死に勝負について行く。しかし面白い。数時間はあっという間のことだった。
戦い終えて日が暮れて、この4人またぞろ同じビルの『へぎそば昆』に席を占めた。新潟は長岡名物のあぶらげ等をつつき酒を舐めながら、互いの生き様をそれとなく確かめる。驚いたことに他の3人は今も車の運転を続けており、最近の車は安全運転機能が抜群だと嘯いていた。頼むからやめてくれと子供に迫られて、5年前に免許返上したのは我一人だった。
そしてほろ酔い気分の中、次の決斗は7月だな、とまあ勇ましげに別れた4人であった。
(2024年4月4日)
下天の夢 [忘れ得ぬ人々]
下天の夢
織田信長が舞い謡った敦盛の一節は、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり一度生を得て、滅せぬもののあるべきか」。だが、昨日2月19日真昼どき、新宿住友ビル47階の東京住友クラブに座った6人にとっても、下天はまるで夢幻のようなもの。知り合ったのは大学に入って最初のロシア語の教室。以来60年の歳月が経っていた。
ともにロシア語を学んだとはいえ、6人を待っていたのは様々な下天。商社に入ってロシア貿易に勤しむ者、航空機に乗って客室の世話を焼く者、或いは高校の教師になって生徒に英語を指導する者・・・。針路も別なら、待っていた幸せも不幸もまた千差万別、孫の成長に目を細める者がいる一方、突然の逆縁に見舞われ、或いは生涯の伴侶を失う者も・・・。
この6人、コロナもあって滅多に会わなくなっていたのに、どうしたことだろう、別れ際、次はこの同じ場所で5月に会おうと誰かが言い出したら、全員が頷いた。時間が、なぜか加速度を増したようである。
(2024年2月20日)
ふる里便り [忘れ得ぬ人々]
ふる里便り
正月明けに他界した小学校時代の恩師のことから、ふとふる里関連ネット情報を探すうち、「おくやみ情報ひだ」なるものが目に付き、初めて閲覧。と、年末年始の僅かな間に恩師以外にも知り人が3人旅立っていたことを知らされた。一人は熊崎亮太郎(97歳)、同じ村で小さな食料品店を営み、よく僕の実家にもオート三輪で配達に来ていたのを見掛けた親父だ。屋号は「いずみや」。通りに面したその屋の2階に、小学校の教員だった母が下宿していて、仕事帰りに通り掛かった郵便局員の父が2階の様子に気を取られた挙句、路傍の郵便ポストに激突したと、親戚の誰かに聞かされた(伝説が事実だったかは、本人たちには確認しなかった)。
あとの二人は中学時代の同級生で、女性の進藤 孝(79歳)と谷川教右衛門(79歳)。前者(写真の女生徒)とは、思えば卒業以来一度としてまみえることがなかった。在学中に一度でも言葉を交わしたことがあったかどうかさえ覚えていないが、ただ写真を見ると3年を一緒に学んだという懐かしさが胸を衝く。一方、教右衛門(集合写真の後列左端。一人おいて僕)には卒業後一度だけ会ったことがある。頃はおそらく20歳前後、山中の鄙びた部落に住む彼の家に泊ったはいいが、彼とその兄に(初めての酒を?)無理強いされた。途中兄が僕を羽交い絞めにして、教右衛門がどんぶり酒を僕の口に注いだような記憶がぼんやり残っている。眉の濃い、まるで昔の侍みたいな男っぽい奴だったのに、恩師のあと1カ月足らずで居なくなっていた。
僕の地球はまたぞろぐんと小さくなった。この文章は、その目に触れるであろう、五指に満たない同級生たちに捧げたい。
(2024年2月14日)
恩師の宿(完) [忘れ得ぬ人々]
恩師の宿(完)
正月が明けて間もない頃、ふる里の村に住む小学校の同級生から電話があって、5年~6年生の時の担任だった髙橋 勇 先生(92歳)が亡くなったことを知った。僕にとって忘れられないというか、僕の人生を10代で一変させた先生だった。この人に出会わなければ僕は多分中学か高校を出て就職、家の後を継いだ今頃は山仕事か野良作業に勤しんでいたと思う。商社やロシアとは異質な世界に住み、交友関係もガラリ変わっていたはずである。以前の投稿(2021年7月17日『恩師の宿』)でも触れたように、小学生時代の僕はとにかく勉強が出来なくて、通信簿は3以下がほとんど。ところが5年になったら大学を出たばかりの髙橋先生が担任として登場し、ある日のこと、何か本を読んでその感想文を書いて出せと言う。その時自ら選んだのは図書室の偉人伝の確か『石川啄木』。読んだかどうかも定かでないが、ただ巻末にあった後書きのようなものをそのまま引き写して提出した。
後日の授業中、先生が何かを喋っているが、いつものように我は関せず、空想の世界に浸っていたところ、先生の声の中にいきなり僕の名前が出て来たのではっとした。なんと僕の読後感想文をべた褒めし、これは凄い、小学生にこんな文章が書けるなんて思いもよらなんだ、このまま行くと末は芥川賞か直木賞か?・・・・ひとに誉められたのは初めてで、恥ずかしかったけれど、それ以上に嬉しかった。
それからである。図書室の偉人伝を次から次へと読み始め、学年が進むと国木田独歩やら夏目漱石にも手を出していた。すると通信簿の評価がどんどん良くなり、殆どの科目が最高点の5になって、卒業式が近付いた頃髙橋先生に呼ばれた、「卒業式には君が答辞を読め、書き方を指導するから今度家に来い」。それで訪ねて行った先が、隣町の “さくらや”、木曽川源流の益田川に臨む温泉旅館、先生はその旅館の跡継ぎ息子だった。
“さくらや”に初めて投宿したのはその60余年後、ふる里の特養ホームに住む母を訪ねる前日のことだった。主人は、とっくの昔に教師を辞めていたかっての勇先生、但し“さくらや旅館”の看板が“国民宿舎さくらや”になっていた。このとき先生が80代なら生徒は70代。60年を超す歳月は互いの人相も声色も変えていた。
後年、コロナが流行り始めると母への面会が不可能になったが、まる2年が経過した頃、15分に限り面会可との知らせを受けたので、ふる里に向かい、再び投宿したのが同じ恩師の宿だった(2021年7月14日)。当日はコロナのため他の宿泊客はゼロ、ために大広間での夕食は、畏れ多くも恩師(90歳)と奥方(89歳)を前にして戴きながら、奥方に運んで頂いた燗酒を、時には師弟で戴くという、勿体ないほどの時間であった。
明くる朝のバスで村に入り、半時間村道を登って母に会った。掛け替えのない15分だった。101歳で母が逝ったのは、その5カ月後。・・・・そして僕の人生の方向を大きく変えた恩師の旅立ちは、その2年後のことだった。
白黒写真は、1957年小学校卒業記念写真(恩師は右中ほど、僕は後列左端)、カラーは2021年7月15日、恩師ご夫妻と。
(2024年2月11日)
卒後半世紀の忘年会 [忘れ得ぬ人々]
卒後半世紀の忘年会
師走只中19日正午、都心は九段下の昭和館前に久し振りに参集したのは、半世紀以上前にロシア語を共に学んだ学友達。彼らは卒業するや世に四散したが、いつの間にか時々集まるようになった(己が原点を振り返るためなのか?)。会の名は最初は忘露会、いくら何でもということで、そのうち「望露会」に落ち着いた。
やって来たのは4人。西ヶ原の学び舎で机を並べ座ったのは40人だったところ、半世紀の間に一人欠け、二人欠けて・・・世に在る者も広島、名古屋等に遠のいて、消息さえ知れぬ者もいくたりか。この日の申し合わせは、陽のあるうちは皇居のお堀に沿って周遊し、暮れ時にはかって女子大生だったマドンナ二人も加わって、忘年の杯を交わす手筈。
田安門から皇居に入り、三宅坂に抜けて、時計とは逆に堀を巡る。秋は既に終末の景色、所々イチョウが黄色に燃え、モミジが紅く妖しく輝くも、樹々は落葉が進んで丸裸の中、真っ黄色に染まった犬枇杷(1枚目の写真)と、辛うじて錦木の枝にしがみ付く葉っぱの赤(写真2枚目)が目に染みた。我れ東京に住みながら灯台下暗し、人生傘寿(数えの80歳)を越えて初めてまみえた桜田門に坂下門。正門の二重橋に近付くのは(写真3枚目)中学の修学旅行以来のことだった。
皇居ツアーの最後に大手門を入って東御苑を歩き、北桔橋門から街に出た。そして竹橋の如水会館の脇にある母校発祥の地の記念碑を背に記念写真(4枚目)を撮った後、神保町のダイニングカフェー「エクスペリア」へ。ここにマドンナ二人が加わって、飲めや歌えの・・・いや、我らは傘寿の揃い踏み。店内のそこかしこに溢れる子供や孫のような世代の声がさんざめく中、ぽつりぽつりと来し方を語り合ううち、誰かが言った、僕らがロシア語の会話を教わった女性のタチヤーナ先生は、実はモルドバ人だったと。驚いた、自分はルーマニア人だと自己紹介があったので、60年間そう思い込んでいた。ヨーロッパは複雑怪奇、やっぱり、目の黒いうちは本を読んで、少しでも視野を広げよう・・・ビールのせいか、一瞬そんな青臭い思いに憑りつかれた宵だった。
(2023年12月21日)
続・兵(つわもの)どもが夢の果て [忘れ得ぬ人々]
続・兵どもが夢の果て
商社同期会の明くる日、今度も真昼に『特殊管輸出懇親会』なる宴に臨んだ。その昔(と言っても明治の代から大正、昭和、平成まで)住友金属工業(通称・住金)なる会社が世に有った。鋼鉄製鋼管(パイプ)の製造では世界トップクラスのメーカーだったが、新日本製鐵との合併を経て現在の社名は日本製鉄。懇親会はその住金の前世紀に、化学プラント等に使用される高級な特殊鋼管を世界に向け拡販努力した同社の営業関係者と、苦労を共にした住友商事(住商)OB/OGが年に一度再会、古い記憶を確かめ合うためのもの。但しこの会もコロナの邪魔が入ったため、4年ぶりの開催だった。
住友御三家のひとつ住金に比べ、住商の歴史は浅い。それは住友家に古来「浮利は追わぬ」の家訓があったためである。それが、終戦後復員等で外地から住友のもと社員が続々と帰国、彼らの糊口を凌がせる窮余の策として、ついに商いに手を染めることになったのだった。
この日、出会いの場所は茅場町のイタリア料理店カルバッチョ。人数も多いので立食形式となった。懐かしい顔が多い中でも、モスクワ駐在時代に迎えたり、一緒に彼の地へ出張した老兵たちを見掛けると、ついワイン・グラスを交わしていた(せめて日の高いうちは嗜むまい、というのがなけなしの哲学だったのに)。
その翌日は一昨日の11月19日、ちいさい秋の具合が気に懸かり、またぞろ六義園を訪れると、櫨の木の紅葉は着実に進んでいた。モミジなど大方の樹が少し色付き始めている中、ハゼノキばかりが紅に燃えていた。独壇場は、なお暫く続きそうである。
(2023年11月21日)
兵(つわもの)どもが夢の果て [忘れ得ぬ人々]
兵どもが夢の果て
1967年といえば今からは半世紀以上も昔、当時は斜陽産業に数えられていたのを知ってか知らずか、一つ商社に草鞋を脱いだ新入社員が年を経て散り散りばらばらになった挙句、てんでに会社を辞めた頃、「67会」なる同期会が年に一度催されるようになったのはいつだったか、それすら曖昧模糊の霧の中。コロナ上陸以来沙汰止みのこの会が、先日の11月17日の真昼どき、新宿の三角ビル47階にある東京住友クラブで開催されたが、1967年入社組140名に対し集まったのは僅か14名。商社の人間は佳人でもないのに何故か薄命。それにしても数年ぶりの顔合わせなのに集まったのがこれだけ少ないとは、予想外のことだった。
かっては立食スタイルだったのが今年は着席で、先ずは今年の物故者に黙禱を捧げる。次いで一人ひとりの近況報告を聴きながらビールかワインで喉を潤しつつ、肴をつまむ。この齢でなお大学で英語を教えていると威張る者あれば、腹を切った回数を誇る者もいて、どうやらこの14人は多かれ少なかれ独善的か、楽天的な傾向が強いようである。一年後の再会については請け合うのもいれば、怯む者もあり、ひと様々であった。
67会の終了後、新宿西口界隈の雀荘に向かう4人は、明日知れぬ命とも知らぬ、懲りない面々。牌を自模るたびに一喜一憂しながら、ポン、チー、ロンと喧しいが、不思議なのは、老け顔がいつの間にか入社新人時代の溌溂とした顔つきに見えることだった(あの頃の兵ども、夢見る顔に)。
(2023年11月19日)
秋匂うとき(猫との別れ) [忘れ得ぬ人々]
秋匂うとき(猫との別れ)
昔モスクワから連れ帰った2匹の猫については、2年前の6月、『ハリネズミ物語』のタイトルで6回にも分けて投稿していた。なのに、先日投稿した『秋匂うとき』の中で兄貴分の方のモルジクについて触れたのは、彼と永久に別れた日も今頃のように金木犀が匂っていたと、初めて妻から聞いたからである。実は2匹目のヨージク(ロシア語でハリネズミちゃん)が旅立ったのも翌年の9月、その時の様子を『ハリネズミ物語』の最終回に載せていたので、以下に再掲させてほしい:
【二匹のシベリアの森の猫は、最初はちっぽけな子猫だったのに、日を追うにつれ大きくなった。兄貴分のモルジクはスリムな胴長だが、それでもピーク時の体重は7キロほど、一方の、子猫の時はどことなくハリネズミに似ていた弟分のヨージクは13キロにもなって、抱くとずしりと重い。気性はどちらも穏やかで、人を恐れることもなく、御用聞きなどの客が来ると、玄関に出迎えた。
モルジクは娘の、ヨージクは息子のものという建前であった。ある日姉弟の口喧嘩が始まり、いつものようにその時も姉の舌鋒が鋭く、弟がタジタジになった。と、いきなりヨージクが姉の背中を駆け上がり、その頬にがぶりと嚙みついた。唖然とした姉は、しかし可笑しくなって笑い出したらしい。
モルジクが異界へ旅立って間もなく、僕は初めての国アゼルバイジャンへと赴任して行ったが、それがまさかもう一匹の猫との別れになるとは思いも寄らなんだ。一年後の9月に妻から便りがあって、ヨージクが日毎に元気を失って、とうとう永久の旅に出たという。その3か月後、娘の結婚式のために一時帰国した折にその時の様子を妻から聞いた。ヨージクは、どんなに衰弱しても人間トイレで用を足そうとしたそうだ。ただ最後の最後はトイレに上がろうとして、どうしても上がれない。見かねてベランダへ抱いて行き、タオルの上に置いて、もういいよ、ここでしな、と話したそうだ。
旅立つ前日の昼間、ヨージクはベランダに横たわり、妻は居間でうたた寝をしていた。ふと、足元に二つの影の様なものが蹲っているのに気が付くと、それがドーナツみたいになって脚先から上がって来て手の先まで通り抜ける。二つ目のドーナツも同じように体の中を通り抜けた。すると突然身体が軽く、気分が爽やかになって、臨終に臨んでいた悲しみが嘘のように消えたというのだ。不思議なこともあるもんだ(モルジクが、まさか迎えにやって来たわけでもなかろうに)。】
ヨージクの命日は同じ9月でもモルジクとは4日違い、しかもその日は妻の誕生日。慌てて訊いた、「その日も金木犀は匂っていたか?」。「いや、匂ってなかった」 ― 決然たる答え。その年の秋は遅かったに違いない、嗅覚、記憶力ともに優れた女房殿が言うんだもの。
(2023年10月30日)
貴様と俺とは同期の桜 [忘れ得ぬ人々]
貴様と俺とは同期の桜
昨日は秋の夕べ、高田馬場のへぎそば昆に集まった老兵4人は、56年前一つ商社に入社した同期の桜。うち3人は保谷(現・西東京市)の独身寮で寝食、遊びまで共にした老朋友同士、残る1人は寮は別でも60年前、大学のロシア語教室で机を並べた古友中の古友である。
歳深まるにつれ疎遠になるのは世の常、ましてコロナ下のこの3年は滅多には会えなんだ仲間と酌み交わす酒は、まるで臓腑に沁み入るような味である。同期の桜ではあるが、酒に麻雀にと互いを求め合ったのは、新入社員の頃だった。そのうち一人が香港に去り、二人目がモスクワへ、或いはブラジルというように、散り散りにばらけて時が過ぎ、気が付いたら還暦を過ぎていて、漸くあいつどうしてるかと互いを探し求めたものだった。
不思議なのはこの日座って最初の内こそ、腹を切ったの、前立腺癌をどうのと言い交わし、齢は争えんと言い合っていたものが、杯を重ねるにつれ何だか互いの顔が若返り、ついには知り合った頃のように見えてくる。こりゃ、やばい、と誰かが思ったのだろう、そろそろお開きにしようと言い出すと、昔と違って、ぐずる者などいなかった。
帰りの電車に座った時、ふと思い出す、今日の宴には伏線があったことを。半月前のことである。I君からラインで、たまには集まりませんか?との提案を受けた、僕が頻りにボヤいているからと、齢を取るとはこういうことか、とか何とか言って。驚いて探すと、その前日の投稿『地球が段々虚ろに見えて』の中で書いていた、「この3年半、数えてみれば人様との付き合いが激減して久しい。それをコロナのせいにしていたけれど、齢を取るとはそういう事なんだ」と。そして次のように締め括っていた、「知り人との出会いが絶え、馴染みの店も次から次へと消えて行く。地球が、なんだか段々虚ろに、虚ろに見えてくる」。
電車と酔いに揺られながら思った、友よ、有難う。
(2023年10月27日)