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秋匂うとき [忘れ得ぬ人々]

秋匂うとき

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 10月も半ばになって漸く金木犀がオレンジ色の花をつけた。去年は9月末だったのに、今年は猛暑の夏が長く続いたせいだろう。ひとり散歩から戻り、妻にそのことを話すと、あの時も金木犀が匂っていた、といきなり言う。質すと、今は遥か昔、猫のモルジックが死んだ日のことだった。彼はモスクワ生まれのサイベリアン・フォレストキャット、2回目のモスクワ駐在時代の1982年、プチーティー・ルイナック(鳥の市場)で僅か3ルーブル(900円)で求めた猫だった(その後暫くして、実はもう一匹の猫ヨージックが家族に加わった)。

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 4年の駐在期間を終えていざ帰国となった時、とても2匹までは連れて行かれないということになり、可愛がっていた姉娘が登校時モルジックを近所の公園に捨ててきた。ところがそのモルジック、下校途中の弟に拾われ帰って来ると、当然のように家族の一員としてJALに乗り、ついには日本の猫になった。

 2匹は、モスクワの社宅時代、東京のアパート暮らしを通じ家族によく懐いて、穏やかな猫生を過ごしていたと思う。いずれも、しかし例外が居て、それは僕だった。夜遅く帰って来て朝はいなくなる、まるで下宿人のようだった。時々は酔っ払って帰って来ると、酒臭い息が籠る布団に引き摺り込まれ・・・。

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 一つ家族になって15年目の9月のこと、モルジックが珍しく僕にも懐きはじめたと思うそばから、日を追うごと衰弱を増し、食べ物も受け付けず、動くのもままならなくなった。そしてある日の晩、急に立ち上がると、足を引きずりながらよたよた歩き始めた。息子の部屋へ、娘の部屋へ、妻の所へ、最後は僕の所へも来て「ミャア」と一声。まるで「ありがとう」と言うように。

 翌朝、納戸の狭い部屋で、モルジックは冷たくなっていた。1996915日、それは僕がアゼルバイジャン共和国のバクー市に単身で赴任する2カ月前のことだった。そのときに金木犀が匂っていたなんて思いもよらなんだが、間違いないと思う。嗅覚、記憶力とも僕に遥かに勝る女房殿のことだもの。

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20231025日)


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つわものどもが夢の宴 [忘れ得ぬ人々]

つわものどもが夢の宴

 長年禄を食んだ商社に商泉会なる、退職者より成る親睦の会あり、年に一度数百名が集まって親睦を図るのが恒例になっていたが、コロナのため2019年を最後に打ち止めとなっていた。以来3年半、さすがのコロナもばて気味の折柄、久し振りに懇親会を開くとの知らせが舞い込んだ。時は710日の夕まぐれ、所は都心ド真ん中の日本橋。すると懇親会の数日前に同期入社の一人から突然メールが到来。折角だから同期同士少し早く集まって宴までの時間に牌を自模(つも)ろうとの誘い。合意成立は、あっという間のことだった。

 当日、日本橋高島屋そばの雀荘ドウジャンで雀卓を囲んだのは、3月に闘ったのと同じメンバー(38日付投稿「決斗高田馬場」)。いずれも現役時代は海外に雄飛。一人はバンコク、台北、ロサンジェルスに、或る者はトルコ、パキスタン、一人は北京、南京、香港に、そして我はモスクワとアゼルバイジャンのバクーに・・・・。中空に日がまだ高い頃から始めたこの遊びは、しかし30年以上も牌に無沙汰していた僕には難題至極、前回の3月同様、敵方3人に都度教えを乞いながら、漸くにしてゲームを乗り切る始末。

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 さて、戦いすんで日が暮れて・・・4人はヴェルサール東京日本橋の懇親会場に設けられた立食の宴へ。そして、改めて互いの無事を祝しグラスを合わせた。久し振りの懇親会は盛況で、見知った人に近付くのさえ容易ならぬ。群れを縫い、ふと顔を挙げれば白髪豊かな知人が目の前に立っていた。七つほども年上の大先輩で、エピソードにこと欠かなかった人である。半世紀も前に聞いた話しだが、モスクワ出張時の夕べ、ボリショイ劇場にオペラのトラビアータ(椿姫)を観に行った時のこと。一幕が済んだ幕間に一行が寛ぐ中、件の大先輩が首を傾げる、「白鳥がなかなか出て来ないなあ!」 — 上演中の出し物がバレーの「白鳥の湖」だとばかり思っていたらしい。・・・・大先輩の突然の出現に驚いたのか、いきなりこのエピソードの真偽を確かめたところ、「そんなこともあったなあ」と怯まぬ先輩、いやあ、あの時はかくかくしかじかと、まことしやかな説明に煙に巻かれる僕だった。

 この日雀卓を囲んだ仲間の一人がついぼやいた、「俺が駐在したのは北京、南京、香港と、今は習近平が牛耳る中国ばかりだった。南京に至っては、あの大虐殺の南京だ。俺の人生はいったい何だったのか?」。そこで僕もついポロリ、「俺だって、モスクワとバクー。両方とも旧ソ連ばかりだった。もう1年以上テレビで残虐な戦争シーンを見せつけられて・・・」。すると、なんだか急に友の顔が和らいで、「そうか、おまえも大変だなあ、頑張れよ」— 逆に慰められた。

 今あらためて思うのは、友よ、戦時下のウクライナに生まれる命もあれば、土中を這うミミズもまた命。命、今ある限り、ここを先途と足掻くしかないと思うのだが・・・。

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2023712日)


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老兵・七夕の集い [忘れ得ぬ人々]

老兵・七夕の集い

 77日は七夕の夕まぐれ、都心の汐留センタービル41階に集ったのは、52名の老兵。その昔、彼らは同じ商社の鋼管輸出部隊に所属、世界各地に向け石油ガス掘削・輸送用をはじめとする鋼管の輸出ビジネスに勤しんだ。彼らは毎年七夕の日を選び都心で顔を合わすことにしていたが、コロナに阻まれたため、今回が4年ぶり、通算20回目の立食の宴となった。

 宴の最初は黙禱。4年の間に8名の戦友を失ったからだ。あとは三々五々集い合い、或いは語り、或いはグラスを合わせていたが、なにせ米寿もいれば卒寿もいる。日がとっぷり暮れぬうちに散会となった。

 写真の3人は、かってコメコン華やかなりし頃、一人はウイーンに駐在して東欧諸国に鋼管を売り込み、二人はモスクワでソ連向け拡販に取り組んだ。彼らが売り込んだ鋼管の一部は、ロシアからウクライナを経て東欧、西欧に向かうガスパイプラインに組み込まれていた。その後ソ連とコメコンが消滅すると、東欧諸国は雪崩を打ってNATOに加入、その挙句昨年2月、ロシアがウクライナに攻め込んで、戦いは今日も続いている。友よ、グラスを干そうか。しかし何のために?

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202379日)


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同期の宴 [忘れ得ぬ人々]

同期の宴

 昨日は、真っ昼間の酒宴になった。半世紀以上前一つ商社に入社した同期の桜、うち5人が最近ラインでつるみ始めたところ、たまにやライン抜きでやろうとなった。で、集まった場所が何と、高田馬場の『へぎそば昆』。偶然の一致にもそこは、先月3日、同じ同期の桜でもまったく別の連中と麻雀を打った後に酒を呑んだ店だった。

 百人は優に超えていた同期の桜、しかし商社を離れて二十余年、今に縁が続く桜は変わり者が多い。退職後ある者は日本語の教師の資格を取って、中国の大連とベトナムのダナンで長年教鞭を執り、帰国後は来日留学生に日本語を教えていた。また、ある者は、資格を得て植木屋に変身したかと思えば、その後樹木医として公園や高尾山等グリーンの世界で活躍、今に至る。

 今日の5人、僕を除いては南半球の駐在経験者が多い。フィリピン、豪州、パプアニューギニア、ニュージーランド、ブラジル・・・。酒を得た舌は、次から次へ思い出話を紡ぎ出す。北半球、しかも寒いロシアしか知らぬ僕には、想像もできないほど明るく自由な世界のようだ。日がまだ中天に高いと言うのに、銚子が次々と空になる。とっくに皆んな喜寿を超えているはずが、己が歳をしばし忘れたか?話しがあちらへ飛び、こちらに飛び、ついにはプーチンに話が及ぶと、「日本はNATOに加盟したらどないやねん」なんちゅう意見までが飛び出す始末。

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 昼下がりの老人飲み会は、回りも早いが、効きめもあらたか。勘定終えて散会。一歩外へ踏み出し、つんのめりそうになるのを堪え、さりげなく抜き足差し足、駅に向かう。その後A君と二人、評判の根津神社のツツジ苑に立ち寄った。ツツジはまさに花盛り。時々よろけそうになりながら、ひとわたり美の競演を見終える頃には、足元がようやく定まって来たようだった。

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2023414日)


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再会 [忘れ得ぬ人々]

再会

 知人に、もう10年以上も上野の国立科学博物館でボランティアのガイドをしている(ひと)る。同館案内よう有難指定日時319日)に上野のお山に赴くと、桜ははや七分咲き、久し振りの花見解禁の日曜とあって、樹よりも多い人民の数。彼と会うのは実質2回目、それも久し振りのことだから、互いに顔が判別できるかときょときょとしてたら、彼の方で僕を見つけてくれた。

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 今から2年半前、同じ東京に住み何度も酒を酌み交わしていた中学時代の同級生(中島兼三)が異界に旅立った。学芸会で全校生を前に「ちいさい秋みつけた」を独唱した兼三は、互いに古希を過ぎた頃、僕がフェイスブックに投稿したハゼノキの紅葉の写真を指して、これが「ちいさい秋みつけた」で歌われた秋なんだと、書き込んでくれた。その彼が逝って、築地本願寺の合同墓に入る日、納骨式に臨むと、20人ほどの参列者の中に顔見知りはいなかった。式のあと(とき)に移りてい席同士名乗りった相方上野待ち合った

 あの斎の席で隣人がおもむろに、存じ上げていますと言い出したから驚いた。中学3年の僕が生徒会長だった時(そのこと自体を僕自身は忘れていた)、2年の彼は生徒会の会計係りだったこと、また、運動会の開会式で僕が述べた言葉の中に「健全なる精神は健全なる身体に宿る」があったことも覚えている、と言う(穴があったら入りたかった。)いや、驚きは果てしない。僕の大学時代に彼も東京に下宿していた時期があって、東上線は成増の僕の下宿まで訪ねたことがあり、その時読まされたというのだ、同人雑誌に投稿した僕の短編『ダスビダーニャ』を(そういえば学生時代、瞬間的に文学にかぶれた時期があったことを思い出した。)他界した兼三は血の繋がるまたいとこで、互いの家は村道を挟んで隣同士だったそうだ。

 さて、その彼に導かれ国立科学博物館をぐるっと廻り、予想を超えて多岐にわたる分野とバライアティーに富む展示品の数々に舌を巻いたが、個人的に特に感動を覚えたのは、渋谷駅前の忠犬ハチ公の本物の剥製と、そのすぐ右後ろに第1次南極探検隊の樺太犬ジローの、これまた実物の剥製を見た時だった。それともう一つは、見学者の中に目を輝かせ、食い入るように展示品と説明のパネルに見入る子供がいること。彼によれば、どう見ても幼稚園児のような見学者の中には、時として彼のような案内役が敵わぬほどの知識を備えた子供がいると言う。言われてよく見れば、小さな子供が何か専門用語のようなのを口走っていた。きっとこんな所には、テレビでしか見ない『博士ちゃん』がうようよいるんだろう。

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 博物館を出て昼下がりの、花見客で賑わう上野のお山を下りて、不忍池の近くの中華料理店に腰を下ろした。シュウマイ、餃子など摘まみながらビールで乾杯。この二人、歳の差こそ僅かでも、天は記憶力に甚大な格差を与えたもうた。ために時として意図せぬ失礼をしているが、赦せ、友よ。・・・・古友と飲む人生二度目の麦酒は五臓六腑に染みわたる。大瓶が幾本も空いたのは、束の間のことだった。

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 そして42日の今日フェイスブックからメッセージが届いた、「今日はKanezo Nakajimaさんの誕生日です。お祝いのメッセージを送ろう!」有難う。ただ、霊界通信のアドレスが僕には分からないのだ。

202342日)


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老兵 天空の午餐 [忘れ得ぬ人々]

老兵 天空の午餐


 


 高田馬場の決斗の明くる37日の昼、今度は新宿住友ビルの47階にある東京住友クラブの座敷に座っていた。掘りごたつ式の座卓に集う5人は、昔とある商社で共に働いたことのある老人たち。皆々還暦などとっくに過ぎて、古希を超え、喜寿を超え、傘寿を超えた者もいる。コロナの3年を生き延びた彼らが出会うのは、ほんに久しぶり。なのに、挨拶もそこそこに異口同音、口を衝いて出る言葉はロシア、ウクライナ、プーチン・・・・。それはしかし、仕方もないことだ。いずれも大学ではロシア語を学び、世に出ては一貫してソ連(ロシア)との取引に携わり、何年も何回もモスクワに駐在、同じ釜の飯を食い合った仲だ。その昔、社内ではロシア通として通っていた。だが、その彼らにしても、兄弟国にしか見えなったロシアとウクライナが、まさか血で血を洗うような死闘を始めようとは予想もつかぬことだった。


 ロシア通?・・・・しかし振り返ってみると、僕などは長年ロシアに住んだと言っても、ロシアとロシア人についてどれだけ知っているかとなると、甚だ心許ない。体制の異なる国の間に透明の鉄のカーテンがあったように、僕とロシア人の間にもまた見えないバリアがあった。外人が住むのは、衛兵が見張る外人専用アパート。駐在員事務所が雇うロシア人のローカル・スタッフは例外なくロシア外務省所属の派遣社員。体制が異なる者同士の付き合いは貿易取引上必要な範囲に限定され、たまの接待で酒を酌み交わす時であれ、せいぜい他愛もないアネクドート(一口噺し)で相手の心を擽るぐらいが関の山だった。


 そのうえ僕に限っては、机の上でさえロシアの歴史も何もろくに勉強もして来なかったから仕方もないが、何もかも分らぬことだらけなのだ。プーチンに対するロシア人の従順さもその一つ。選りに選って資本主義が未発達だったロシアで何故社会主義革命が成功し、結果全体主義が70年も続いたかもその一つ。それともこの二つには通底するものでもあるのだろうか?


 それはともかく、地上47階の天空の午餐は談論風発、酒を舐め、肴を食らう間もあればこそ、嗄れ声が飛び交った。だが、やがて、老兵は死なず、消え去るのみと言うように、別れを惜しみつつも、足元が明るいうちに家路に就く我らだった。


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2023310日)


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大叔父一家の満洲譚(その7) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その7)

 

 満州帰りの、たか(澄一の妻)以下8名が我が家(僕まだ2歳未満)に身を寄せてから1カ月が経った頃であった。満州の根こそぎ動員により関東軍に召集されていた貞夫(澄一の長男、ゆきの夫)が突然目の前に現れたのを見て、11歳の末弟が叫んだ、「あんま(兄貴の方言)、はよう帰っておいでてよかった!どうしないたの?」。貞夫、「(ソ連に捕まって、捕虜を運ぶ)汽車から飛び降りて逃げて来たんやさ」。幸治、「ええっつ、凄いぜな、あんま!」。貞夫、「けど、俺は運がよかったんや。飛び降りたとこが鉄橋のすぐ手前でな、ちょっとでも遅かったら駄目やったし、一緒に逃げた奴は栄養失調やったで、可哀想にな・・・」。

 これで、一族で行方が知れぬのはあと2人、貞夫と同じタイミングで根こそぎ動員に遭った、澄一の長女いとの夫の金二と、次男の喜代治。彼らが相前後して帰って来たのは、その約1年半後、抑留先のソ連からだった。

 今このように書きながら実は、大叔父一家が嘗めた想像を絶する苦難の体験に77年後の今頃やっと気づいた自分自身に呆れている。『ソ連が満州に侵攻した夏』の中で半藤一利が慨嘆している、「昭和205月現在で、開拓団は881団、約27万人であった。実は、日本帰国までのその後の過酷な生活による病没と行方不明者をいれると、開拓団の人々の死亡は78,500人に達するのである。3人強に1人が死んだ。国家から捨て去られた開拓団の満洲での悲惨は戦後も長く、いつまでも続いたことになる」。

 満州の開拓団の悲劇に加えて、同じ頃シベリアに抑留された兵たちもまた悲劇に見舞われた。抑留者575,000人のうち現地で死亡したのが53,000人。1956年の日ソ国交回復以降、政府はソ連、次いでロシアに死亡した抑留者に関する資料(情報)を求め続け、結果32,000人の身元が判明したが、今現在も21,000人が未だに身元不明のまま異国の丘に眠っている。因みに、僕自身月給取り最後の6年は、この抑留者資料の翻訳業務だった。

 以下は、澄一の末っ子の幸治(88歳)が昨年11月に語った言葉である、「哲夫よ、戦争は悲惨や。ソ連軍なんてほんとにひどいもんやった。今のウクライナとの戦争にそっくりや。まだウクライナの方が、食う物、眠る家や車もあるだけ、あの頃のわしらよりましかもしれん。ロシアの兵隊は囚人やら食うに困った連中やというが、昔もおんなじやった。本当に滅茶苦茶むごかった。悪魔以下やった」。

 さて、いつの間にか7回も連載することになった『大叔父一家の満洲譚』を締め括るに当たり、登場人物のうち僕自身が出逢った記憶がある人を数えたら、たか(澄一夫人)、貞夫、ゆき、佐貴子(82歳)の4人(佐貴子以外は、没して久しい)。その4人とも遠い遠い昔に会ったきりだが、目元、口元にどこか共通の雰囲気があった。優しさというか慈愛というのか、何とも言えぬ温かさのようなものだった。だからだろうか、まるで地獄のような脱出行の途中で孤児トシ子を拾い上げ、一年後ついには祖父母のもとへ届けた顛末を読んだとき、驚きが、直ぐに得心に変わったのは。。

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 写真は、我が住むアパート9階からの日没の景色。生まれてから18の歳まで陽は東の山に昇り、西の山に沈んだが、この半世紀は東のビルに昇り西のビルに沈む。思えば遠くへ来たもんだ。

2023122日)


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大叔父一家の満洲譚(その6) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その6)

 

 1945年(昭和20年)8月にソ満国境の開拓村を発った一行が、逃避行の途次、大黒柱の澄一(とういち)(僕の大叔父60歳で死亡)を失いながらもついに佐世保に着いた正確な日付は不明だが、それは1946年(昭和21年)7月下旬であったろう。というのも後で触れるように、一行がふる里の竹原村(岐阜県飛騨地方)に着き、澄一の兄・準一(僕の祖父)の家に辿り着いたのが同年731日だったからである。一行9人中、澄一の妻(たか)、娘(いと、よね、かとり、美雪(14歳))、11歳の末息子(幸治)、長男の貞夫の妻ゆき(28歳)の7名にとっては5年ぶりの祖国であったが、いずれも満州で生まれた佐貴子(ゆきの娘)と孤児トシ子の二人には初めての日本であった。

 いま僕の前に『またおいでよ』というタイトルの一冊の小冊子がある。これは、31年前に他界した父を偲んで作った追悼集。この中で母が、一家が戻って来た日のことを次のように追想している:

母、「あれは眞一(僕の次弟)の生まれた日(昭和21731日)のことやった。眞一を産んで、寝とったらなあ、うちの衆がだあれもおいでんようになった。なんにも音がせんの。どおなってまったかしらん思ってな、まあーず、生まれたばっかやし、だあれもおいでんし、弱ったこっちゃなあ、みんなどおしてしまいないたかしらんって思っとったの。そしたら、暫く経ったら、ガヤガヤガヤガヤ、どえらい音がしだいたで、まったく」。

みき伯母、「サキちゃんに、ゆきマに、かとりサに・・・・」。

母、「十人やったで、十人。そいつで奥出(おくで)(注:奥の客間のことで、父母の寝室の隣にあった)に入りないたやろな、隣やもんで賑わしいって賑わしいって・・・」。

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 かくして、一年にわたる苦難の逃避行の末にやっと故郷に辿り着いた一家は、その日から相当な期間を僕たちと同じ屋根の下で過ごすことになる(一行が到着した日、僕は2歳に満たぬ歳だった)。ところで、母の追想にある十人は、実際には7人であったはずである。というのも、一行9人のうち、ゆき(貞夫の妻)と孤児のトシ子は竹原村最寄りの下呂駅では降りず、ずっと北の富山県寄りにある飛騨古川に向かったからである。古川では先ずトシ子の父方の祖父母を訪ね事情を話したけれど、引き取れないとすげなく断られ、次に母方を訪ねると、「よう連れ帰っておくれた」と泣いて喜ばれた。ゆきはその晩その家に泊まり、今までのことを縷々語る間、その場のみんなは大泣きに泣いていたという。

 という次第だから、ゆきは1日遅れで僕んちのみんなに合流したことになる。それでも一族の数はまだ8人。この時点では、根こそぎ動員で持っていかれた長男・貞夫(29歳)、喜代治(次男)の兄弟と、長女いとの夫・金二の行方は杳として知れない。

 なお、先に触れた父の追悼集『またおいでよ』の中に、「懐かしい人々」と題する母の聞き書きがあるが、その中で、逃避行の途中客死した澄一についてこんなことを書いている:

澄一叔父様

私の嫁入りした時はすでに満州に渡ってみえて、引き揚げの途中で亡くなられ、ついに逢うこともなかった叔父様は、話に聞くと、大変な美男子だったそうです。若い頃は歌にまで唄われて、女衆に騒がれたもんやと、これはむら叔母さんから聞きました。字もとても上手で、仕事も丁寧でいて素早く、田植えのとき、一寸でも曲がるとひどく叱られたと、これはみき姉さんから聞きました。満州から引き揚げて来るとき、女子ども大ぜいを引き連れてきて、責任感の強い叔父様が無理をなさったのがもとで病気になられ、向こうで亡くなられたとか、残念なことでした。

2023121日)


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大叔父一家の満洲譚(その5) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その5

 

 大叔父・澄一(とういち)一家に孤児トシ子が加わった10人は文字通りの難民となって、ひたすら南へ向かって歩く。満州は広大だ、ちょうど日独伊三国が同盟したよな広さがある。そこを北の端から南の端まで歩こうというのだから大ごとだ。きっと野宿の連続だったに違いない。発ったのが8月半ばの暖かい季節だったが、満州国の首都であった新京(現・長春)に近付く頃には冬に差し掛かっていたのだろう(ネットで調べると、長春の冬は11月~2。最も寒い1月は―10°~―19℃)。一行は新京に入ると、厳寒の2カ月の間だけ家を借り、なんとか商売をして食いつなごうとする。極度の食糧不足でガリガリに痩せこけた体は、それでも容赦のないシラミに(たか)られた。当時11歳の末っ子の幸治は、そのとき食べたジャガイモの味が忘れられない。それは、中国人が収穫を終えた畑を父・澄一が更に掘り返して、見つけ出してきたジャガイモだった。

 しかし、その澄一が寒さと過労で倒れたと思ったら、あっという間に亡くなってしまう。1945215日のことだった。町の人の手を借りて、カチンカチンに凍った土をなんとか掘って遺骸を埋葬すると、中国人がやって来て、「ここに空港ができるから、それだと浅すぎる」と言うので、苦労して更に2メートル程掘り下げて埋葬し直した。幸治は云う、「哲夫よ、親父は今も長春の滑走路の下で眠っとるぞ」。

 澄一を欠き文字通り女子供ばかりとなった一行(9人中、男は幸治一人)だが、故国はなお遥かに遠く、更に南に向かって歩を進めた。あるとき滔々と流れる大河にぶち当たり、見渡す限り橋もないので、途方に暮れ、この時ばかりは年配の者の胸に、みんなで自決、と言う言葉が浮かびかけた。そして誰ともなく、もうちょっと頑張ってみようかと励まし合って更に南へ歩いて行ったら、ついに橋を見付けたのだった。

(弊注:19465月、日本を占領した米国と中華民国の国民党の間で在満邦人の日本への送還協定が結ばれた結果、渤海に面する遼寧州の錦西(現在の葫蘆島(ころとう)邦人引き揚事業スタート)。大黒柱澄一ったはいえ妻「か」以下9人は揃って錦西に辿り着き、引き揚げ船「遠州丸」で佐世保に運ばれたのだった。

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 閑話休題: 以前の投稿で、童謡「ちいさい秋みつけた」のハゼノキの長い秋について紹介したことがあるが、ウルシの秋もまた負けず劣らずに長い。写真のウルシを撮ったのは、最初は昨年10月、次は12月、最後は今年の正月明け。2カ月以上を経て、なお一片(ひとひら)ない

2023119日)


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大叔父一家の満洲譚(その4) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その4

 

 今は昔の19458月のある日、ソ連軍の突然の侵攻に吃驚した老人・女子供ばかりの澄一(とういち以下9人は、飼っていた白馬「花車」を始め豚、牛、鶏に最後の餌をふるまうと、一路南を目指して逃走の旅に出た。ソ満国境の開拓村を出て、先ずは最寄りの鶴岡(ほーかん)(黒竜江省東部の鉱業都市)目指

  (『ソ連が満州に侵攻した夏』は云う、「頼みの軍はさっさと後退し、その上に県公署、警察なども急速に機能を失った。放り出された一般居留民や開拓農民の予期されていた悲惨は、いよいよ現実化していく。鉄道や自動車を利用することのできた一部の軍人家族や官吏家族なんかとは違って、かれらは自分の足を唯一の頼りに歩くほかはない。そのあとを急速な、ソ連軍機甲部隊が追撃してくるのである、しかも、すでに記したように、屈強のものたちはすべて根こそぎ動員で奪われている。(中略)辺境の居留民はソ連参戦の報さえ知らされていなかった。ほんとうに国にも軍にも見棄てられたのである」。)

その旅について遥か後年、戦後5年目にこの世に生を受けた、僕のまたいとこの哲夫君が、逃避行の当時11歳であった叔父の幸治が語るのを聞いたことがある:

 哲夫よ、真っ先に逃げたのは兵隊とその家族、役人一家、町民の順で、最後が開拓民やった。そんとき俺は父ちゃん(澄一)に手を引かれて、無数の焼夷弾が降る中を走った。『父ちゃん、眠たいよう』と弱音を吐くと、こんなとこで寝たら死んでまう、と言われた。頭や腕や足が千切れた死体を踏んで泣きながら走った。母ちゃんやゆき姉さん(貞夫の妻)、かとり姉さん、佐貴子(貞夫の長女、当時5歳)も(しらみ)だらけ、それでもソ連の兵隊に遭うと大変やから髪を丸坊主に切って男装しとった。顔は泥で真っ黒け、服はボロボロ、みんなガリガリに痩せこけたままった。

 逃げる途中でゆき姉さんが、銃弾に倒れ息絶えた男女のそばで泣きじゃくる女の子を見た。偶然にもそれは同じ開拓団に暮らしていた飛騨古川出身の家族で、生き残った娘は佐貴子と同い年のトシ子だった。ゆき姉さんは躊躇いもせず「一緒に日本へ帰ろう」と手を取って、佐貴子とトシ子を両脇に抱えながら、焼夷弾が降り銃弾が掠める中を必死に駆けた。

 (『ソ連が満州に侵攻した夏』いわく、「忘れてならないのは、国境付近より脱出行をつづけている居留民や開拓団のことであろう。(中略)そのかれらをソ連軍が急追してくる。さらに現地人が仕返しの意味もふくめて匪賊のごとく襲いはじめた。(中略)また、幼い子供をつれて歩いているものには、中国人が『子供をくれ、子をおいてゆけ』とうるさくつきまとい、ついには、『女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ。それでどうだ』と値段をつけてまでして、執拗そのものであった。(中略)それにしても、こうした逃避行において、もっとも悲惨であったのは、その誕生にもその生活の選択にも、いささかも責任のない子供たちであったことだけはたしかなのである。いまも残留孤児の報を聞くたびに、その思いを深くする。事実は、子供たちの多くは野垂れ死にしなければならなかったのである。生命を救われたのはそれでもまだましであったのである。そして疲れはて追いつめられ絶望的になった開拓団の集団自決が、820日を過ぎたころよりいたるところではじまった」。)

鶴岡(ほーかん)佳木斯(ちゃむす)の駅前に辿り着いた時やった。一頭の白馬が目の前に忽然と現れたのを見て、、「あないか?っぱや!」。何とそれは、兄貴(貞夫)が手塩にかけて育て上げた花車だった。何日最後の餌をって抱きついて大泣ら、った注:花車つい以上言及ないが、再会しい別離ったである)。

(脚注:トシ子を加え10人となった一行は佳木斯から更に南下を続け、ジンファ(綏化?)を経て満州国の首都の新京(現在の長春)を目指す。数カ月にわたる野宿の連続であったと思われる。占領下の日本がどんな様子か見当もつかないが、向かうところは遥か彼方の祖国しかないのだった)。

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真冬の今、目につく花は山茶花ぐらいと思ったが、道端の草叢をよくよく見れば黄色い花が咲いていた。スマホのレンズの判定によると、大黄花(おおきばな)カタバミと言しい外来雑草った

2023118日)


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