秋匂うとき [忘れ得ぬ人々]
秋匂うとき
10月も半ばになって漸く金木犀がオレンジ色の花をつけた。去年は9月末だったのに、今年は猛暑の夏が長く続いたせいだろう。ひとり散歩から戻り、妻にそのことを話すと、あの時も金木犀が匂っていた、といきなり言う。質すと、今は遥か昔、猫のモルジックが死んだ日のことだった。彼はモスクワ生まれのサイベリアン・フォレストキャット、2回目のモスクワ駐在時代の1982年、プチーティー・ルイナック(鳥の市場)で僅か3ルーブル(900円)で求めた猫だった(その後暫くして、実はもう一匹の猫ヨージックが家族に加わった)。
4年の駐在期間を終えていざ帰国となった時、とても2匹までは連れて行かれないということになり、可愛がっていた姉娘が登校時モルジックを近所の公園に捨ててきた。ところがそのモルジック、下校途中の弟に拾われ帰って来ると、当然のように家族の一員としてJALに乗り、ついには日本の猫になった。
2匹は、モスクワの社宅時代、東京のアパート暮らしを通じ家族によく懐いて、穏やかな猫生を過ごしていたと思う。いずれも、しかし例外が居て、それは僕だった。夜遅く帰って来て朝はいなくなる、まるで下宿人のようだった。時々は酔っ払って帰って来ると、酒臭い息が籠る布団に引き摺り込まれ・・・。
一つ家族になって15年目の9月のこと、モルジックが珍しく僕にも懐きはじめたと思うそばから、日を追うごと衰弱を増し、食べ物も受け付けず、動くのもままならなくなった。そしてある日の晩、急に立ち上がると、足を引きずりながらよたよた歩き始めた。息子の部屋へ、娘の部屋へ、妻の所へ、最後は僕の所へも来て「ミャア」と一声。まるで「ありがとう」と言うように。
翌朝、納戸の狭い部屋で、モルジックは冷たくなっていた。1996年9月15日、それは僕がアゼルバイジャン共和国のバクー市に単身で赴任する2カ月前のことだった。そのときに金木犀が匂っていたなんて思いもよらなんだが、間違いないと思う。嗅覚、記憶力とも僕に遥かに勝る女房殿のことだもの。
(2023年10月25日)
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