大叔父一家の満洲譚(その5) [忘れ得ぬ人々]
大叔父一家の満洲譚(その5)
大叔父・澄一一家に孤児トシ子が加わった10人は文字通りの難民となって、ひたすら南へ向かって歩く。満州は広大だ、ちょうど日独伊三国が同盟したよな広さがある。そこを北の端から南の端まで歩こうというのだから大ごとだ。きっと野宿の連続だったに違いない。発ったのが8月半ばの暖かい季節だったが、満州国の首都であった新京(現・長春)に近付く頃には冬に差し掛かっていたのだろう(ネットで調べると、長春の冬は11月~2月。最も寒い1月は―10°~―19℃)。一行は新京に入ると、厳寒の2カ月の間だけ家を借り、なんとか商売をして食いつなごうとする。極度の食糧不足でガリガリに痩せこけた体は、それでも容赦のないシラミに集られた。当時11歳の末っ子の幸治は、そのとき食べたジャガイモの味が忘れられない。それは、中国人が収穫を終えた畑を父・澄一が更に掘り返して、見つけ出してきたジャガイモだった。
しかし、その澄一が寒さと過労で倒れたと思ったら、あっという間に亡くなってしまう。1945年2月15日のことだった。町の人の手を借りて、カチンカチンに凍った土をなんとか掘って遺骸を埋葬すると、中国人がやって来て、「ここに空港ができるから、それだと浅すぎる」と言うので、苦労して更に2メートル程掘り下げて埋葬し直した。幸治は云う、「哲夫よ、親父は今も長春の滑走路の下で眠っとるぞ」。
澄一を欠き文字通り女子供ばかりとなった一行(9人中、男は幸治一人)だが、故国はなお遥かに遠く、更に南に向かって歩を進めた。あるとき滔々と流れる大河にぶち当たり、見渡す限り橋もないので、途方に暮れ、この時ばかりは年配の者の胸に、みんなで自決、と言う言葉が浮かびかけた。そして誰ともなく、もうちょっと頑張ってみようかと励まし合って更に南へ歩いて行ったら、ついに橋を見付けたのだった。
(弊注:1946年5月、日本を占領した米国と中華民国の国民党の間で在満邦人の日本への送還協定が結ばれた結果、渤海に面する遼寧州の錦西(現在の葫蘆島)の港からの邦人の引き揚げ事業がスタートした)。大黒柱の澄一を失ったとはいえ、その妻「たか」以下の9人は揃って錦西に辿り着き、引き揚げ船「遠州丸」で佐世保に運ばれたのだった。
閑話休題: 以前の投稿で、童謡「ちいさい秋みつけた」のハゼノキの長い秋について紹介したことがあるが、ウルシの秋もまた負けず劣らずに長い。写真のウルシを撮ったのは、最初は昨年10月、次は12月、最後は今年の正月明け。2カ月以上を経て、なお一片が離れない。
(2023年1月19日)
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