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大叔父一家の満洲譚(その6) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その6)

 

 1945年(昭和20年)8月にソ満国境の開拓村を発った一行が、逃避行の途次、大黒柱の澄一(とういち)(僕の大叔父60歳で死亡)を失いながらもついに佐世保に着いた正確な日付は不明だが、それは1946年(昭和21年)7月下旬であったろう。というのも後で触れるように、一行がふる里の竹原村(岐阜県飛騨地方)に着き、澄一の兄・準一(僕の祖父)の家に辿り着いたのが同年731日だったからである。一行9人中、澄一の妻(たか)、娘(いと、よね、かとり、美雪(14歳))、11歳の末息子(幸治)、長男の貞夫の妻ゆき(28歳)の7名にとっては5年ぶりの祖国であったが、いずれも満州で生まれた佐貴子(ゆきの娘)と孤児トシ子の二人には初めての日本であった。

 いま僕の前に『またおいでよ』というタイトルの一冊の小冊子がある。これは、31年前に他界した父を偲んで作った追悼集。この中で母が、一家が戻って来た日のことを次のように追想している:

母、「あれは眞一(僕の次弟)の生まれた日(昭和21731日)のことやった。眞一を産んで、寝とったらなあ、うちの衆がだあれもおいでんようになった。なんにも音がせんの。どおなってまったかしらん思ってな、まあーず、生まれたばっかやし、だあれもおいでんし、弱ったこっちゃなあ、みんなどおしてしまいないたかしらんって思っとったの。そしたら、暫く経ったら、ガヤガヤガヤガヤ、どえらい音がしだいたで、まったく」。

みき伯母、「サキちゃんに、ゆきマに、かとりサに・・・・」。

母、「十人やったで、十人。そいつで奥出(おくで)(注:奥の客間のことで、父母の寝室の隣にあった)に入りないたやろな、隣やもんで賑わしいって賑わしいって・・・」。

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 かくして、一年にわたる苦難の逃避行の末にやっと故郷に辿り着いた一家は、その日から相当な期間を僕たちと同じ屋根の下で過ごすことになる(一行が到着した日、僕は2歳に満たぬ歳だった)。ところで、母の追想にある十人は、実際には7人であったはずである。というのも、一行9人のうち、ゆき(貞夫の妻)と孤児のトシ子は竹原村最寄りの下呂駅では降りず、ずっと北の富山県寄りにある飛騨古川に向かったからである。古川では先ずトシ子の父方の祖父母を訪ね事情を話したけれど、引き取れないとすげなく断られ、次に母方を訪ねると、「よう連れ帰っておくれた」と泣いて喜ばれた。ゆきはその晩その家に泊まり、今までのことを縷々語る間、その場のみんなは大泣きに泣いていたという。

 という次第だから、ゆきは1日遅れで僕んちのみんなに合流したことになる。それでも一族の数はまだ8人。この時点では、根こそぎ動員で持っていかれた長男・貞夫(29歳)、喜代治(次男)の兄弟と、長女いとの夫・金二の行方は杳として知れない。

 なお、先に触れた父の追悼集『またおいでよ』の中に、「懐かしい人々」と題する母の聞き書きがあるが、その中で、逃避行の途中客死した澄一についてこんなことを書いている:

澄一叔父様

私の嫁入りした時はすでに満州に渡ってみえて、引き揚げの途中で亡くなられ、ついに逢うこともなかった叔父様は、話に聞くと、大変な美男子だったそうです。若い頃は歌にまで唄われて、女衆に騒がれたもんやと、これはむら叔母さんから聞きました。字もとても上手で、仕事も丁寧でいて素早く、田植えのとき、一寸でも曲がるとひどく叱られたと、これはみき姉さんから聞きました。満州から引き揚げて来るとき、女子ども大ぜいを引き連れてきて、責任感の強い叔父様が無理をなさったのがもとで病気になられ、向こうで亡くなられたとか、残念なことでした。

2023121日)


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