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大叔父一家の満洲譚(その7) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その7)

 

 満州帰りの、たか(澄一の妻)以下8名が我が家(僕まだ2歳未満)に身を寄せてから1カ月が経った頃であった。満州の根こそぎ動員により関東軍に召集されていた貞夫(澄一の長男、ゆきの夫)が突然目の前に現れたのを見て、11歳の末弟が叫んだ、「あんま(兄貴の方言)、はよう帰っておいでてよかった!どうしないたの?」。貞夫、「(ソ連に捕まって、捕虜を運ぶ)汽車から飛び降りて逃げて来たんやさ」。幸治、「ええっつ、凄いぜな、あんま!」。貞夫、「けど、俺は運がよかったんや。飛び降りたとこが鉄橋のすぐ手前でな、ちょっとでも遅かったら駄目やったし、一緒に逃げた奴は栄養失調やったで、可哀想にな・・・」。

 これで、一族で行方が知れぬのはあと2人、貞夫と同じタイミングで根こそぎ動員に遭った、澄一の長女いとの夫の金二と、次男の喜代治。彼らが相前後して帰って来たのは、その約1年半後、抑留先のソ連からだった。

 今このように書きながら実は、大叔父一家が嘗めた想像を絶する苦難の体験に77年後の今頃やっと気づいた自分自身に呆れている。『ソ連が満州に侵攻した夏』の中で半藤一利が慨嘆している、「昭和205月現在で、開拓団は881団、約27万人であった。実は、日本帰国までのその後の過酷な生活による病没と行方不明者をいれると、開拓団の人々の死亡は78,500人に達するのである。3人強に1人が死んだ。国家から捨て去られた開拓団の満洲での悲惨は戦後も長く、いつまでも続いたことになる」。

 満州の開拓団の悲劇に加えて、同じ頃シベリアに抑留された兵たちもまた悲劇に見舞われた。抑留者575,000人のうち現地で死亡したのが53,000人。1956年の日ソ国交回復以降、政府はソ連、次いでロシアに死亡した抑留者に関する資料(情報)を求め続け、結果32,000人の身元が判明したが、今現在も21,000人が未だに身元不明のまま異国の丘に眠っている。因みに、僕自身月給取り最後の6年は、この抑留者資料の翻訳業務だった。

 以下は、澄一の末っ子の幸治(88歳)が昨年11月に語った言葉である、「哲夫よ、戦争は悲惨や。ソ連軍なんてほんとにひどいもんやった。今のウクライナとの戦争にそっくりや。まだウクライナの方が、食う物、眠る家や車もあるだけ、あの頃のわしらよりましかもしれん。ロシアの兵隊は囚人やら食うに困った連中やというが、昔もおんなじやった。本当に滅茶苦茶むごかった。悪魔以下やった」。

 さて、いつの間にか7回も連載することになった『大叔父一家の満洲譚』を締め括るに当たり、登場人物のうち僕自身が出逢った記憶がある人を数えたら、たか(澄一夫人)、貞夫、ゆき、佐貴子(82歳)の4人(佐貴子以外は、没して久しい)。その4人とも遠い遠い昔に会ったきりだが、目元、口元にどこか共通の雰囲気があった。優しさというか慈愛というのか、何とも言えぬ温かさのようなものだった。だからだろうか、まるで地獄のような脱出行の途中で孤児トシ子を拾い上げ、一年後ついには祖父母のもとへ届けた顛末を読んだとき、驚きが、直ぐに得心に変わったのは。。

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 写真は、我が住むアパート9階からの日没の景色。生まれてから18の歳まで陽は東の山に昇り、西の山に沈んだが、この半世紀は東のビルに昇り西のビルに沈む。思えば遠くへ来たもんだ。

2023122日)


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