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抑留記(竹原 潔)と脱走兵 [読後感想文]

抑留記(竹原 潔)と脱走兵

 

 あれは一体いつ頃のことだったか、僕が中学か高校の時だから60年以上も前のこと、飛騨の山奥の僕んちの居間に胡坐をかく客一人。父の従兄の貞ま(貞夫さん)が満蒙開拓団に

行った先で兵隊に採られた話しを語るのを、家族揃って聴き入った。満州のそこはとても過酷で不衛生な環境で、殆どの兵が下痢に苦しむ中、貞ま一人がぴんぴんしているのを(いぶか)る戦友に訳を訊ねられた。ようは分らんが、時々(まむし)に遭うと捕まえて生で食っとるが、と言うと、戦友は気味悪そうな顔して離れて行った(ところで蝮の生肉と言えば、僕の子供時代、祖父と父に付いて山仕事に出掛けた時、途中出くわした蝮を祖父が捕まえ、昼飯の時二人で舌鼓を打ちながら食べていた。僕はよう手を出さなんだが、白身の肉だった)。満州の蝮は、この辺の蝮と違ってなあ、と貞まは続ける。手で尻尾を持ってぶら下げると、頭はそのままだらんと垂れ下がったままやから、おとなしいもんやった。

 だがソ連が満州に侵攻して来て、部隊が投降し、みんな列車に乗せられた。どこへ連れて行かれるのか全く分からないので、たまらなく不安やった。で、夜陰に紛れソ連兵の目を盗み列車から跳び下りて脱走、何とか逃げおおせることができた・・・・という貞まの口上を、遥かに遠い異国のことなど想像もできない家族一同、固唾をのんで傾聴したものである。

 以来60余年の間にソ連抑留関係の書物を何冊も読んだが、満州からソ連に拉致される日本兵が列車から脱走したなどという話しはどこにも書いてない。だから、貞まの話しを思い出すたび、あれは本当にあったことだろうかと、首を傾げたことだった。

 そして出遭った今度の「抑留記(竹原 潔)」。その57頁で、いきなり次の文言が目に飛び込んできた、「兵隊の中に逃亡するものがしきりにあった。何しろ兵隊の中には現地召集を受けたものが相当いて、それらの者は家族が満州に居るものが多い。その耳に満州各地におけるソ軍暴行の噂がしきりに入って来る。矢も楯も堪らなくなって、逃亡するのだ。途中の危険は百も承知の上である。私は逃亡者については一切報告しなかった(注:著者の竹原は中佐のため、日本兵輸送時の変事についてソ連側責任者に報告する義務を負わされていた)。(中略)二百人以上の逃亡者があったが、私の責任を追及されることは一度も無かった。私としてはただ無事に逃げおおしてくれればと祈るだけだったが、果たしてうまく逃げおおしてくれたかどうかは、私は今日(昭和53年)に到るまで知ることはできなかった」。

 読みながら、胸の中で呟いた、「竹原さん、逃げおおせた人を一人知っていますよ。その人は僕の従伯父(いとこちがい)。逃亡のあと家族のもとに辿り着き、日本に向かう途次、父親こそ病で亡くしたものの、母親、嫁さん、子供ともども無事日本の土を踏み、ふる里に戻って来られました。そして暫くは我が家の、以前は厩であったスペースに住まわれました。僕が生まれて間もない頃でした」。

 今日は快晴。久し振りの散歩に出掛け、街角の小さな公園に入ると、モミジの樹が陽を浴びて真っ赤に燃え上がり、緑の藪の中に立つ低い灌木の葉が上品なコーラルピンク色に染まっていた。友よ、巷の秋もたけなわぞ。

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20221118日)


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