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抑留記と忘れ得ぬ人々(完) [読後感想文]

抑留記と忘れ得ぬ人々(完)

 

 抑留記(竹原 潔)は450頁にわたる分厚い本である。にも拘らず老骨がいつの間にかそこに嵌まり込み、気が付いたら最後の頁を読んでいた。その訳は、繰り返しになるが、この手記が人に読ませるためではなく、まるで日記の如く淡々と書かれたせいだろう。

 それに加えて僕の場合、長年ソ連に係る仕事に携わった関係上、特に若い頃は上司、取引先や業界に抑留からの帰還者が多く、中には著者・竹原 潔のように、単なる抑留者ではなく、戦犯で裁かれて25年の最高刑を食らった人もいた。だからであろうか、抑留記が語る出来事の一つ一つがとても人ごととは思えないのであった。例えば抑留記の226頁は記す、「(著者・竹原が)食堂に昼食をもらいに行った。食堂の係は元外務大臣松岡洋(すけ)氏の息子がやっていた。(中略)松岡は私の飯盒に麦の粥ではあったが、いっぱい詰めてくれ、「体に気を付けて下さいよ」と言ってくれた。二十七、八年経った今でも、それを覚えている位だから、陸軍中佐も情けないことに、余程うれしかったに違いない」。

 上記で触れられている松岡とは、極東軍事裁判A級戦犯の松岡洋右の3男坊・松岡震三であり、僕が勤めていた会社の取引先の部長であったが、のち専務まで昇進した。この他にも抑留記には「労務係の寺島君」とか、「小池君」等の名前が出て来て、それらはよくある名前ではあるが、僕が知る同姓の人の勤務先がソ連との合弁会社だっただけに、もしかしたら、という思いがある(彼らは抑留帰還者だった、と聞いたことがあった)。また、同じ職場の先輩にかって陸軍中野学校でロシア語を教えていた人とか、父親が何とか大将とかいう偉い軍人で本人は満鉄勤務だったという人がいたが、彼らは竹原中佐同様、一般の抑留者から戦犯に昇格(?)、25年の最高刑を食らい、恩赦を経て、抑留者中最も遅い11年後の最後の船で舞鶴に帰還したと聞かされた。

 

 「抑留記」も終わりに近い所で、著者が語る。囚人労働の作業中大怪我をして入院。55日後に完治せぬまま退院させられてラーゲリに戻っても、誰も彼も我関せずの無反応。そこで彼は記す、「ラーゲリでは悲しみも苦しさも一人で堪え抜き、喜びも楽しさも一人で味わうだけである。千三百人の囚人は私にとっては路傍の石に過ぎない。近頃マラソンの選手などを、孤独なる戦いなどと頗る詩的な言葉で表現することが流行しているようであるが、あれを孤独な戦いなどというのはどうかと思う。旗を振っている数万の観衆がいる。報道陣もいる。倒れたら収容してくれる救急車もいる。喉が渇いたら飲むべき飲料水まである。それに比べればここの囚人の方がよほど孤独のようである」。

 

 この抑留記は、竹原 潔が生前に残していた記録であるが、その出版を決意したのは姪の竹原裕子である。「抑留記」の後に「解題」として、裕子による潔に関する追加説明が加えられている。最後に「あとがき」の中で、裕子が出版に際し協力を得た何人かに謝意を述べている中、いきなり知り人の名が目に飛び込んで来た。その人とは3年程、机を並べて仕事をしたことがある。ロシア語が堪能で真摯なもと同僚の、懐かしい名前だった。

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20221122日)


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