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抑留記と究極の泥棒 [読後感想文]

抑留記と究極の泥棒

 

 見知らぬシベリアの大地を行先も分からずに着のみ着のまま列車で運ばれる抑留者、そんな日本兵を鵜の目鷹の目で窺い、隙あれば何か盗ろうとする庶民がソ連に居たというから凄まじい。捕虜の兵たちがぎゅうぎゅう詰めの貨車で運ばれる途中、夜は引き込み線に停車する。兵たちが貨車の外で眠ると、携行していたリュック等が無くなることがある。それはその土地々々の人々が貨車の反対側の下からカギを付けた長い棒を突っ込み、引っ掛けて手繰り寄せるからだった。

 或いは、捕虜は歩くが、その手荷物をトラックが運ぶことがあった。そんな時、竹原中佐はトラック毎に体調の悪い捕虜の兵を見張り役に乗せたが、その理由を彼は語る、「トラックの運転手をすべて泥棒だという私の言葉に、抗議する人がいるかも知れない。(中略)1万人の運転手の中には1人くらい泥棒をやらない運転手がいるかも知れない。私はそう確信し、断言する」。

 第2次世界大戦をソ連は大祖国戦争と呼ぶが、その大戦でソ連は世界断トツの20003000万人を失っている。庶民が日本人捕虜のなけなしの持ち物まで狙わなければならない背景には、大戦で徹底的に崩壊された生活があったものと推定されるが、それにしてもおぞましいことに変わりはない。

 上で触れたトラックの1台に竹原中佐が指揮のため同乗した。トラックの運転手は集落で中年の女性と老婆をお金を取って乗せた。そして「抑留記」は記す、「先程からチラチラと私の顔を見ていた中年の女の方が、籠の中からトマトを一つ取り出して私の方に差し出し、『あなたは日本人でしょう、これをお上がりなさい!』。(中略)私は、『スパシーボ』と言って、そのトマトを受け取り口に入れた。『旨いよ』と言うと、彼女、初めてニッコリした。このことは今から二十二年前の昔にあったことである。しかし私は、この1個のトマトを貰ったことをはっきり覚えている。それは、私がソ連に抑留されていた十一年余の間に、ソ連人から受けたただ一回の親切であったからである」。

 

 閑話休題、下の写真は昨日訪れた地下鉄後楽園駅そばの礫川(れきせん)公園にあるハゼノキの紅葉である。この木こそ、60年以上前にサトウハチローに童謡「ちいさい秋みつけた」を書かせた張本人であることは、一年前の投稿で触れさせて頂いた。昨年見た時はまだ緑の方が多かったが、今度は真っ赤に燃えていた。サトウハチローの庭ではまだ小さかった秋が、様々な時代を乗り越えて、ずいぶんとでっかくなったもんだ。IMG20221029112909.jpg

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