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大叔父一家の満洲譚(その3) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その3)

 

 大叔父一家が新天地を求め満州に渡った昭和15年(1940年)は、3年前に始まった日中戦争が泥沼化する中、日独伊3国同盟が締結された年である。その翌年の昭和16年(1941年)に日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発し、その先にとてつもない奈落が待っていようとは、一家は勿論、送り出す村人の誰一人にも予想のつかぬことだった。

 満洲に到着した澄一(とういち55歳)一家は、三つの家族に別れて入植する。澄一夫婦と子供5人、長男・貞夫(24歳)夫婦(妻ゆきマは長女を身籠っていた)、そして長女いととその夫の11人だった。前稿で触れたように、入植後貞夫夫婦に生まれた娘3人のうち2人を栄養失調で失う等、様々な試練を乗り越えて苦節5年、まさにこれからという時、故国日本に敗色が迫る中、ここ満州では1945710日、1845歳の居留男性邦人15万人に根こそぎ動員令がかかり、澄一・一族も29歳の貞夫以下3人を兵にとられてしまった。『ソ連が満州に侵攻した夏(半藤一利)』は云う、「根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が十万人はいた。新京(満州国の首都、現在の長春)では、ガリ版刷りの召集令状に、『各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶二本を携行すべし』とあった。出刃包丁は棒にしばって槍とし、ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり戦車体当たり用の火炎瓶である」。

 後に残ったのは、入植直後に生まれ5歳になる貞夫の娘を含めて総勢9人。しかし働き盛りの男手を失った彼らが、農作業や家畜の世話に苦労した日数は僅かであったろう。ものの1カ月も経たぬ89日に、突如ソ連軍がソ満国境を越えて攻め込んで来たのだから(日本では、その直前の86日広島に、89日長崎に原爆が投下されている)。一家は、王道楽土とは名ばかりの辺境の地で、それでも懸命に働いて築き上げたすべてを捨てて、ただ南へ、南へと徒歩で逃げるしか術はなかった。入植地を離れたのが8月中旬として、ふる里の竹原村に辿り着いたのが翌昭和21年の731日だから、実に一年近くも逃亡・生還の旅を続けたことになる。

 またいとこの哲夫君(貞マの次男)が、この時11歳だった叔父の幸治からこの旅の様子を聞いたことがあった。それについては次稿に譲りたい。

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 この冬東京も寒い日が続いているけれど、去年と違ってまだ雪を見ない。写真は、いつもの散歩コースの隅田川畔。一糸纏わぬ桜並木が寒々と、ただ黒々と並ぶ中、雀はどこへ行ったのか?

2023117日)


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