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ダモイ遥かに(その1) [読後感想文]

ダモイ遥かに(その1)

 

 辺見じゅん作ノンフイクション『ダモイ遥かに』。この本、60年来の友人が読み始めたと聞いて、我負けじとでも思ったのか、咄嗟に図書館から借り出して読み始めた。ダモイはロシア語で「ふる里」とか「故国」の意味。今からは68年も昔、ロシア極東のハバロフスク州にある日本人戦犯を収容するラーゲリ(強制労働収容所)で一人の男が病死した。主人公の山本幡男(はたお)である。喉頭癌に罹りダモイった母、妻、子供遺書ノート15頁(4500字)にもわたる長文であった。書いたものは、見つかると没収されるので、仲間の囚人により秘匿され、片手の指では足らぬ数の仲間によって、或いは分担して記憶され、或いは糸巻きの芯にする等の工夫を経て、24か月後の1956年(昭和31年)12月、シベリア抑留者最後の帰還船・興安丸で海を渡り、京都の舞鶴に着く。

 とまあ、さらっと書いたけれど、こんなことは普通あり得ないことである。仮に僕が主人公と仲の良い同囚だったとしても、そんな苦労の片棒を担ぐ気になったはずもない。そこは厳寒のシベリア、碌な食べ物も無い中で打ち続く強制労働の日々が10年も続いている。みんな極限状況のもと必死に生き延びようとしている。なのに何故、他人の遺書なのか?

 その、あり得ないことが起きたのだから、そうせざるを得ないような、とんでもない気持ちを他人に抱かせる何かが山本には有ったのだと思うしかない。すると思い至るのは、ラーゲリの中で句会を主宰し、和歌や俳句を熱心に指導する彼。ダモイに帰る日がきっと来ると、ともすれば落ち込む仲間を励ます彼。民主化運動と称しソ連側に転向した囚人仲間からスターリンや共産主義を礼賛するよう誘われても、頑として拒否し続けた彼・・・・そこに浮かび上がるのは、知的で、優しく、いつも前向きに夢を追い、それでいて志操堅固、男らしいが同時に父性本能を擽るような、多面的な魅力があったとしか思えない。

 著者の辺見じゅんが山本を主人公に『収容所から来た遺書』を初めて世に出したのは、1989年(平成元年)であったが、その頃は未だ取材でシベリアを訪れることは不可能だった。その19年後に上梓された『ダモイ遥かに』の最後の方で著者が語っている、「最初の本の刊行から20年近い歳月がたつが、その間に世界情勢は変わり、実際にシベリアに行くことがかなった。あらためて山本さんをめぐるシベリア物語を書いてみたいと何度も思ったりした」。その間の取材の成果であろう、『ダモイ遥かに』の方では、興安丸が舞鶴に着いた後、遺書がいつ誰によって、いかなる方法で家族に届けられたのかを具体的に記している。それによると、最初に届けたのは森本研一、舞鶴到着後の翌年1957年(昭和32年)に大宮市に住む家族のもとを訪れ、自ら手渡している。以後、遺書は時をおいて更に5人からそれぞれ手渡されるか、郵送で送られる。うち最後の6番目に小包で送られて来た遺書は、山本幡男と同郷の島根県に住む新田礼助からのもの。届いたのは1987年(昭和62年)、それは幡男死して何と33年後のことだった。

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2023128日)


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