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大叔父(おおおじ)一家の満州譚(その2) [忘れ得ぬ人々]

大叔父(おおおじ)一家の満州譚(その2)

 

 78年前に僕が生まれたのは、飛騨山中の狭い盆地にある竹原村の田圃の中の一軒家。なのに周りの田圃はすべて他人の物、有るのは桑畑に野菜畑、それに僅かばかりの山林だった。それを奇妙とも思わぬままに成人し、田圃が昔は全部自分ちの物だったのを知ったのは、ずいぶん後のことだった。本家の負債を連帯保証していたために、1929年(昭和4年)の世界恐慌に続く昭和恐慌により300年続いた近郷随一の名家だった本家が破産すると、それに伴って分家も多くの資産を失ったためだった。

 祖父・準一の弟・澄一(とういち(貞夫の父、哲夫の祖父)が構えていたもう一つの分家11人の大所帯であったにも拘らずすべてを畳んで満州に渡ったのは、本家の破産に伴う生産手段の喪失にあったものと思われる。折しも「ソ連が満州に侵攻した夏(半藤一利)」によれば、『明治末から対満移民政策がとられ、多くの日本人が海を越えて渡満した。(中略)昭和11年(1936年)に広田弘毅内閣が国策として決定した二十カ年百万戸移民計画によって、この傾向はいっそう強まった』。

 かくして一家は1940年(昭和15年)満州の地を踏み、愛知、三重、岐阜3県が合同して三江省鶴立県(現・黒竜江省湯原県東部)に設けた東海村開拓団に入植したが、当初は苦難の連続だった。というのもソ満国境に近いそこは、匪賊の巣と呼ばれるほどに治安も悪い僻地で、栄養失調による多数の犠牲者が出た。澄一家では息子の貞マ・ゆきマの夫婦に長女に続き次女、三女が生まれたが、長女以外は栄養失調で亡くなっている。

 しかしそんな中でも、一家の大黒柱の澄一(当時50代後半)も長男の貞マ(当時20代後半)も共に必死になって頑張ったらしい。ずっと後年のことであるが、前稿で触れた僕のまたいとこの哲夫君は、当時満州で一緒だった叔父の幸治(貞マの年の離れた弟、当時10歳未満)より次のように聞いている、「あんま(兄の方言)は本当に凄かった。父ちゃん(澄一)もあんまも要領がよくて、他より数段大きな農場にして、見渡す限りトウモロコシ畑が広がっていた。2千頭以上の豚と牛を飼い、豚の大きさときたら日本の豚の二倍もあった」。

 哲夫君はまた、母のゆきマから次のような話しを聞いたことがあった、「その頃開拓村には国からいろんな支援があって、(うち)には北海道から馬が贈られて来た。でかいでかい白馬で、名前は花車。(とう)ちゃん(夫・貞夫のこと)は160センチもないやろ、そんで世話するのにミカン箱が要るような立派な馬やった。ある時、花車が言うことを聞かず父ちゃんの腕を噛んだもんで、父ちゃんは怒って角棒で何遍も叩きないた。可哀想やで、もうやめないヨ、と言っても、聞かなんだ。舐められたらあかん、最初が大事や、徹底的にやらなあかん、って、その後も父ちゃんは花車に朝まで付き添って、ずっと言い聞かせた。すると次の日、花車は別の馬になっとった。花車も凄いけど、父ちゃんはもっと凄かった」。

 後年、働き盛りの貞マ以下3人が根こそぎ動員で抜けた後、残された60歳の澄一と女子供が突然侵攻して来たソ連軍を逃れて南下の途中、佳木斯(チャムス)目の前ろう花車った

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2023115日)


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