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大叔父一家の満洲譚(その4) [忘れ得ぬ人々]

大叔父一家の満洲譚(その4

 

 今は昔の19458月のある日、ソ連軍の突然の侵攻に吃驚した老人・女子供ばかりの澄一(とういち以下9人は、飼っていた白馬「花車」を始め豚、牛、鶏に最後の餌をふるまうと、一路南を目指して逃走の旅に出た。ソ満国境の開拓村を出て、先ずは最寄りの鶴岡(ほーかん)(黒竜江省東部の鉱業都市)目指

  (『ソ連が満州に侵攻した夏』は云う、「頼みの軍はさっさと後退し、その上に県公署、警察なども急速に機能を失った。放り出された一般居留民や開拓農民の予期されていた悲惨は、いよいよ現実化していく。鉄道や自動車を利用することのできた一部の軍人家族や官吏家族なんかとは違って、かれらは自分の足を唯一の頼りに歩くほかはない。そのあとを急速な、ソ連軍機甲部隊が追撃してくるのである、しかも、すでに記したように、屈強のものたちはすべて根こそぎ動員で奪われている。(中略)辺境の居留民はソ連参戦の報さえ知らされていなかった。ほんとうに国にも軍にも見棄てられたのである」。)

その旅について遥か後年、戦後5年目にこの世に生を受けた、僕のまたいとこの哲夫君が、逃避行の当時11歳であった叔父の幸治が語るのを聞いたことがある:

 哲夫よ、真っ先に逃げたのは兵隊とその家族、役人一家、町民の順で、最後が開拓民やった。そんとき俺は父ちゃん(澄一)に手を引かれて、無数の焼夷弾が降る中を走った。『父ちゃん、眠たいよう』と弱音を吐くと、こんなとこで寝たら死んでまう、と言われた。頭や腕や足が千切れた死体を踏んで泣きながら走った。母ちゃんやゆき姉さん(貞夫の妻)、かとり姉さん、佐貴子(貞夫の長女、当時5歳)も(しらみ)だらけ、それでもソ連の兵隊に遭うと大変やから髪を丸坊主に切って男装しとった。顔は泥で真っ黒け、服はボロボロ、みんなガリガリに痩せこけたままった。

 逃げる途中でゆき姉さんが、銃弾に倒れ息絶えた男女のそばで泣きじゃくる女の子を見た。偶然にもそれは同じ開拓団に暮らしていた飛騨古川出身の家族で、生き残った娘は佐貴子と同い年のトシ子だった。ゆき姉さんは躊躇いもせず「一緒に日本へ帰ろう」と手を取って、佐貴子とトシ子を両脇に抱えながら、焼夷弾が降り銃弾が掠める中を必死に駆けた。

 (『ソ連が満州に侵攻した夏』いわく、「忘れてならないのは、国境付近より脱出行をつづけている居留民や開拓団のことであろう。(中略)そのかれらをソ連軍が急追してくる。さらに現地人が仕返しの意味もふくめて匪賊のごとく襲いはじめた。(中略)また、幼い子供をつれて歩いているものには、中国人が『子供をくれ、子をおいてゆけ』とうるさくつきまとい、ついには、『女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ。それでどうだ』と値段をつけてまでして、執拗そのものであった。(中略)それにしても、こうした逃避行において、もっとも悲惨であったのは、その誕生にもその生活の選択にも、いささかも責任のない子供たちであったことだけはたしかなのである。いまも残留孤児の報を聞くたびに、その思いを深くする。事実は、子供たちの多くは野垂れ死にしなければならなかったのである。生命を救われたのはそれでもまだましであったのである。そして疲れはて追いつめられ絶望的になった開拓団の集団自決が、820日を過ぎたころよりいたるところではじまった」。)

鶴岡(ほーかん)佳木斯(ちゃむす)の駅前に辿り着いた時やった。一頭の白馬が目の前に忽然と現れたのを見て、、「あないか?っぱや!」。何とそれは、兄貴(貞夫)が手塩にかけて育て上げた花車だった。何日最後の餌をって抱きついて大泣ら、った注:花車つい以上言及ないが、再会しい別離ったである)。

(脚注:トシ子を加え10人となった一行は佳木斯から更に南下を続け、ジンファ(綏化?)を経て満州国の首都の新京(現在の長春)を目指す。数カ月にわたる野宿の連続であったと思われる。占領下の日本がどんな様子か見当もつかないが、向かうところは遥か彼方の祖国しかないのだった)。

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真冬の今、目につく花は山茶花ぐらいと思ったが、道端の草叢をよくよく見れば黄色い花が咲いていた。スマホのレンズの判定によると、大黄花(おおきばな)カタバミと言しい外来雑草った

2023118日)


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