黄色い秋(名主の滝公園) [巷のいのち]
黄色い秋(名主の滝公園)
東京は北区の王子にある名主の滝公園は、幕末の安政の世に造られた王子村の名主の屋敷跡である。同じ北区の六義園の広さとは比較すべくもない狭さで、旧古川庭園と比べてもその六割余。しかし一年ぶりに足を踏み入れたそこには、秋がぎっしりと詰まっていた。門を入ったすぐ右手の池の、鴨が日向ぼっこをしている水面には、赤や黄色の秋が映えていた。
池に繋がる川辺では、緑から黄色に変わりかけた細長い葉っぱが目に留まった。公園事務所に訊いたら、それは細葉犬枇杷という名の灌木、イチジクの仲間だった。
地表には夥しい黄色の落葉が散り敷き、緩い川面にも零れて流れている。見上げると、梢に黄葉を纏った銀杏の木が天高く聳えていた。この黄色には、もの心ついた頃から馴染みがあり懐かしい。銀杏は、何しろ世界最古の樹木なのだ。この季節にこの黄色を見ると、必ず思い出すのはフランク永井の公園の手品師(YouTubeのURL):
https://www.youtube.com/watch?v=xxd_JqH-ero
戦後間もない山奥の寒村、そこで生まれ育った少年が触れたのはど演歌か盆踊りの歌のいずれかで、クラシックなどはどこか異次元のものだった。その歌の、特に2番の歌詞が今もなお心に浮かぶ、「雲が流れる公園の 銀杏は手品師 老いたピエロ 口上は云わないけれど なれた手つきで ラララン ラララン ラララン カードを撒くよ 秋がゆくんだ 冬がくる 銀杏は手品師 老いたピエロ」。
名主の滝公園のベンチに座り、ランチにと持って来たクリームパンとバナナ一本をほおばる。見上げる頭上では、赤と緑のモミジ葉が陽に煌めき、銀杏の黄色と覇を競っている。ここは限りなく静謐な世界。パンデミックも、ウクライナの戦争も、まるで別世界のようだった。
(2022年12月12日)
六義園 もう一つの秋(2022年) [巷のいのち]
六義園 もう一つの秋(2022年)
六義園の今年の秋の写真からもう6枚を加えたい。水辺のススキと真っ赤に紅葉したドウダンツツジ、早くも正月に向けて赤い実をたわわに付けた縁起物の万両、そして最後に紫式部の3枚を。
紫式部に初めて出遭ったのは、秋の群馬の山の中だった。榛名湖から伊香保温泉に下る途中、全山が紅葉か黄葉に染まる中、紫の点々が視野を捉えた。何だこれ?その時は未だ知らなんだ、紫式部という名の木があるなんて。しかしもう、あの野生の紫色を見ることはないだろう。股関節を痛め、山歩きを諦めて一年が過ぎた。その15年前のことだった、このままでは肺気腫が進行して死ぬより苦しいことになりますよ、と医者に脅されたのは。で、40年吸い続けたタバコを止め、有酸素運動のためと思い山歩きを始めたのが62歳。以来週末になると低い山を求めて旅に出た。だが結局は、健康のために始めたはずの山歩きも、過ぎたるは及ばざるが如しだったようだ。
六義園の紫式部は、野生のものではない。しかしその色は、いつか見たあの伊香保の森の実のように純で艶やかな紫に輝いていた。また来る秋があるのなら、来てみよう、あの色に会うために。
(2022年12月7日)
六義園のモミジ(2022年秋) [巷のいのち]
六義園のモミジ(2022年秋)
六義園はさして広くもない庭園だが、門を潜った端から都心の喧騒が消える不思議な世界である。小石川後楽園と共に江戸二大庭園と謳われたここは、元禄の世に徳川5代将軍綱吉から下賜された土地を下屋敷とするために側用人・柳沢吉保自らが設計・造営に当たったという。春爛漫の季節もいいが、圧巻は何といっても秋の紅葉。黄葉の銀杏こそ少ないけれど、そこかしこモミジやハゼノキが朱く燃え盛る。
下に、この秋のモミジ(含・カエデ)のいくつかを紹介したい。
(2022年12月6日)
六義園 秋のハゼノキ(2022年) [巷のいのち]
六義園 秋のハゼノキ(2022年)
ハゼノキの紅葉と言えば六義園に尽きるのではあるまいか。井の中の蛙が跳んで入ったのは、他には旧古川庭園と小石川後楽園ぐらいのもんだから、大きな声では言えないが、六義園の秋はハゼノキでもっていると思う。前稿で渡月橋のハゼノキを紹介したが、園内にはその他にもハゼノキがそこかしこに散在し、かつ少しづつ紅葉し、少しづつ落ちるので、秋が実に長いのだ。
今年、ハゼノキの緑の葉叢の一部が朱く染まっているのに最初に気づいたのは10月上旬。それからは訪うたびに朱色が増え、やがて全身が炎のように燃え上がったけれど、炎は一つづつゆっくりと消えて行き、12月に入っても疎らに枝に残る朱色は切ないほどに美しい。写真は、今年の秋のそんな変遷の欠片です。
(2022年12月5日)
渡月橋の秋2022年 [巷のいのち]
渡月橋の秋2022年
渡月橋といっても、あの有名な京都の渡月橋ではない。東京の駒込にある六義園の、長さ10メーターにも満たぬ小さな橋である。六義園に足を踏み入れたのは2年前、ちょうどサラリーマン生活から足を洗った頃からコロナも流行り始めて遠出が難しくなったので、それまで勤しんでいた山歩きをやめて、庭園に自然の息吹を求めたのが動機だったと思う。電車で3駅という便利さもあって、年に何度か訪れていたが、この秋は毎週のように門を潜っていた。
そして気が付いたら、いつの間にか渡月橋の風景を望める川辺が一番のお気に入りのスポットになっていた。そこに立つと、橋を挟んで左にモミジが、右に(「ちいさい秋みつけた」の)ハゼノキが枝を広げている。モミジの秋はアッという間だが、ハゼノキのそれは長い。一葉々々が時間差をおいて色付き、全葉が一斉に朱く染まっても、散るのはまた一つづつ、実に半月以上にわたってそれぞれの婀娜な姿を見せてくれるから堪らない。
写真は、最初の3葉が順に今年の11月19日、11月24日、12月4日に、そして最後の1葉は一昨年11月下旬に撮ったものである。
(2022年12月4日)
ちいさい秋いろいろ [巷のいのち]
ちいさい秋いろいろ
11月20日の投稿「抑留記と究極の泥棒」の最後の方で紹介した後楽園・礫川公園のサトウ・ハチローの「ちいさい秋みつけた」を見た友人から、ラインで写真が送られて来た。ピアノ?と思ったそれは、井の頭公園にある「ちいさい秋みつけた」の歌碑だった。サトウ・ハチローの詩に曲を付けた中田喜直がその昔三鷹に住んでいたとき、井の頭池の畔を散策中に思いついたのがあのメロディーだったことから、2013年にその池の畔に建てられたという。
ところで「ちいさい秋」とは果たしてどんな秋だろうか?11月14日東京都北区にある六義園(江戸初期の柳沢吉保の下屋敷)をそぞろ歩く途中、笹叢の中に朱く色付いた櫨の落ち葉を見つけて、ふとあの歌の歌詞を思い浮かべた、「むかしの むかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ」。・・・そして思った、庭に立つ作り物の鶏のとさかの上にあったのは、きっとこんなハゼノキの落ち葉だったに違いないと。
先日、街角のクリーニング屋の傍を通りかかると、鉢植えのモミジが真っ赤に燃えていた。以前春に紹介した「ド根性シクラメン」がコンクリートの割れ目に咲いていた、そのすぐそばだった。
その翌日、学童パトロールからの帰り道、とっぷり暮れた中をアパートに急ぐ途中、何かが左頬にかさりと当たって地に落ちた。見ればちいさな秋。これも一期一会、思わずスマホを取り出した。
(2022年12月3日)
塞王の楯(今村翔吾) [読後感想文]
塞王の楯(今村翔吾)
2021年下半期第166回直木賞受賞作「塞王の楯」(単行本552頁)を読んだ。苦手な芥川賞には手を出さなくなったが、直木賞にはまだ未練があるのか、受賞作が新聞に発表されると、つい図書館に予約を入れるが、直木賞は人気が高いので予約順位はいつも200~300番台あたり。それをひたすら待ち続け、手にするのは大体半年後ぐらい。だがこのところ折角順番が巡って来ても、長編のため途中でギブアップすることが多い。「テスカトリポカ(佐藤 究)」しかり、「黒牢城(米澤穂信)」またしかり。いや、迷うのだ。齢今78歳、明日をも知れぬと思うと、今のんびり小説に浸ってよいものか心が千々に乱れる。
今度の「塞王の楯」も長編。作者の名前(今村翔吾)にどこか見覚えがあると思ったら、はるか昔に貪り読んだ江戸の火消し「羽州ぼろ鳶組」シリーズの著者ではないか。はるか昔に?・・・だが記録を見たら2018~2019年のことだった。しかも9冊も読んでいた。記憶の経年劣化は恐ろしいほどだ。
この「塞王の楯」は、しかし読みだすといつの間にか物語の中に嵌まり込み、いつもの焦燥感に悩まされることもないままに読み終えた。普段は夜の読書は避けている(酒が入ると、その間読んだ記憶を失うことが多い)。なのに今回ばかりは、焼酎の湯割りを舐めながら読んだ部分も、しっかり記憶に残っている。
時は戦国時代、実際にあった三つの城攻めが舞台である。織田信長軍による朝倉家との一乗寺谷の戦い、本能寺で信長を討った明智光秀軍による日野城(蒲生家)攻め、そして最後は天下分け目の関ヶ原合戦直前の、西軍による大津城(京極家)攻め。主役は、但し武士ではなく、守る側の石垣を積む職人であり、敵役は攻める側に火縄銃・大筒を供給する、これまた職人。この、一見目立たぬ職人同士の攻防が全編を貫く。
そう言えば、かって読んだ「羽州ぼろ鳶組」も主役は武士ではなく、江戸の火消しであった。普通時代小説と言えば、宮本武蔵だの近藤 勇だのという剣豪が定番なのに、今村翔吾という人はどうも目立たぬ庶民の方が好きなようだ。
それと、これは個人的な好みのせいかもしれないが、この人の文章には艶がある。例えば終盤近くで描く、「一つだと何の変哲もない石も、寄せ合い、噛み合って強固な石垣になる。人もまた同じではないか。大名から民まで心一つになった大津城、それこそが『塞王の楯』の正体ではないか」。そして、物語を締め括るのは、「匡介は柔らかに石を置いた。わあ、と全太の上げた声を、近江の風が巻き上げてゆく。草木は揺れ、白雲は流れ、水面は波立つ中、石塔はすうと天を仰いで揺るがない。湖西路を此方へと近づいて来る花嫁行列を見つめながら、匡介は明日の聲に耳を欹てた」。
(2022年12月1日)