錦秋 六義園 [巷のいのち]
錦秋 六義園
昨日の投稿で触れたように我が住む都心の北区も秋が進み、江戸二大庭園の一つなる六義園ではハゼノキに代わってモミジが主役に躍り出、赫々と、ただひたすらに赫々と身をくねらせていた。その姿態に当てられたのか、その翌日もまた気が付いたら六義園の門を潜っていた。二日連続は初めて、一つの秋に7回来るのも初めてのことだった。老いた我が記憶装置は殆んど機能しないため、艶やかな姿見掛け次第スマホをかざしたうちの5枚をここで紹介したい。
園内を巡りながら時々はベンチに休み、開いた本はユダヤ人のモルデカイ・モーゼ著(久保田政男訳)「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」(1979年初版、1999年再版)。のっけからひき込まれた、ぞくぞくするよなことが書いてある。天皇制も、武士道も、義理人情も家族制度も、戦前の日本は比類なき制度を持っていたのに、それらすべてをぶち壊したのは我々ユダヤ人だった、と、次から次へと謝罪の羅列。いい気になって読むうち、44頁あたりではてなと思った、余りにもここちよすぎるではないか?で、本を検めると、原語の題名が見当たらない。ネットで検索しても確たる情報は少ないが、一つだけあった。それによるとモルデカイ・モーゼは翻訳者とされる久保田政男その人のことだと・・・。これだけの情報で判断するのは早計かもしれない。迷いつつも、しかし決めた、明日図書館に返しに行こう。読まれるのを待っている、次の本が気に懸かる。書名は、『寿命が尽きる2年前』。
(2023年12月10日)
師走2023年 [巷のいのち]
師走2023年
“師走”が12月の異名だと知ったのは、恥ずかしながら、ついこないだのこと、それまでは、年末が近づくとそろそろ師走かと、ぼんやり感じるままに過ごした78年だった。思えば我が人生一事が万事そんな調子だったため、最近は曖昧に覚えていた言葉に出遭うたびにスマホで確かめるようになりました。
師走の2日に六義園で出遭ったハゼノキのちいさな秋のことは前稿で報告しましたが、同園で見た他の樹の秋景色の一部を紹介します(写真順に、紫式部、銀杏、モミジ、イロハモミジ)。ご覧のように秋も大分深まり、錦秋はもう直ぐのようです。
師走の初日、老夫婦揃って初めての病院を訪問。日頃行きつけのクリニックの紹介状を携えて、認知症の診断をしてもらうためだった。数頁に亘るアンケートを提出し、専門医からのいろんな質問に答えた結果、二人とも現状では精密検査までは必要ないでしょうとのことであった。
師走の夜、例年のようにアパートの庭にイルミネーションが灯った。大和様式ではないけれど、年の終わりを告げるには十分な雰囲気。どうやらこのままもう一つ、年の瀬を跨ぐことになりそうだ。
(2023年12月6日)
ちいさい秋みつけた2023年 [巷のいのち]
ちいさい秋みつけた2023年
今年の秋もまた、童謡「ちいさい秋みつけた」の櫨の木の紅葉を追って、六義園を四たび訪れた。最初は10月に入って直ぐ、10月10日付投稿「秋立ちぬ」で紹介したように、ほんの一部のハゼノキの枝先の葉が赤味を帯び始め、ひと月後の11月上旬になると、11月6日付「ちいさい秋みつけた(アメリカの根源的大罪その2)」の通り、ハゼノキ全体の6~7割に秋が進んでいた。
3回目は11月25日。ここに掲げる3枚の写真のように3週間のうちに秋は更に先へ進んでいた。その日改めて認識したのは六義園にあるハゼノキの数。11月6日の投稿でいかにも物知り顔に、同園には十数本も有るとほざいたけれど、とんでもない。今頃赤く燃える樹は殆んどがハゼノキ、本数は?老いた頭には数えるのが無理だった。
そして最後に行ったのは一昨日の12月2日。さすがにモミジ、銀杏も衣替えを始めてはいるものの、目に付くのは小さい秋の真っ赤なべべ。この瞬間、秋はハゼノキの独り舞台のようなのだ。足元の熊笹の葉の上にべべの一切れが零れていた ― 君知るや、サトウハチローの歌詞の締め括りを、「むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色 ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋 みつけた」。
(2023年12月4日)
蜘蛛の糸 [巷のいのち]
蜘蛛の糸
先日の投稿「真昼の宴」で井の頭公園で撮った写真2葉を載せたが、その時の写真をあと3葉紹介したい。というのも、吉祥寺の駅から直ぐにあるその公園すら、今じゃ滅多には行けそうもないからである。2年前の夏、山歩きの途中滑落死しそうになって股関節を痛め、以来15年続けた山歩きを断念、その冬母を失うと、ふる里の岐阜県飛騨さえまるで異国のように遠く変じた。この2年というもの母の一周忌を除き新幹線なるものには座ったこともない。
前置きは兎も角、ここに掲げる2葉は井の頭公園の紅葉の秋。風そよとも吹かぬ秋晴れのもと、紅や黄金色に染まった樹々が湖面にも写り映えて、えも言われぬ風景だった。と、目の前の空中に一片の黄色い落ち葉が浮かんでいる ― 老眼を見開いてよく見ると、そこは蜘蛛の巣で、邪魔な葉っぱに今しもにじり寄りそな女郎蜘蛛。
「真昼の宴」投稿の翌日、ライン仲間からのメッセージに、「こちら方面にお出ましの際は、ひと声お掛け下さるべし」。吉祥寺方面に住む商社同期入社の仲間からだった。老いた落ち葉がうっかり飛び込んだのは、友が廻らすシマの内だったのだ。
(2023年12月2日)
真昼の宴 [巷のいのち]
真昼の宴
コロナが漸く下火になって、何年振りかで同期会だの何やら懇親会が再開され始め、漸く座敷牢から抜け出す機会がぼちぼち増えてきたが、寄り合う者等しく年老いたせいか、コロナ前は夜会だったものがいつの間にか昼の集いに置き換わっていた。昨日の真っ昼間、荻窪のイタリア料理店ラ・ヴォーリアマッタに集まった4人は昔々一つの課で、共産圏向け鋼管(スチール・パイプ)の輸出に特化していた仲間だった。それはしかし半世紀も前の若い頃、今じゃいずれも70~80歳代のお爺ちゃん。
彼らのある者は冷戦時代のウイーンに家族を置いて、平日はポーランドやハンガリー等の東欧諸国の顧客を駆け巡り、ある者はモスクワに駐在して、ソ連全体の鉄鋼製品の輸出入を独占する国家機関に日参、あるいは日本から遠路出張して来たメーカーと組んで極北のシベリアや、ウズベキスタン等の中央アジアの石油・ガス田をへ巡った。すべてはしかしはるか前世紀の、今は昔の出来事。甘い赤ワインの香りに一瞬往時へ想い馳せても、口に出す者はいない。
別れ際に誰が言ったか、一年後にまたやりましょう!・・・鬼が笑うか、と言いそうになって、出たのは、いいねえ、やりましょう!
一人になったとき中天に日はなお高かったので、井の頭公園で気になっていた「ちいさい秋みつけた」を作曲した中田喜直の記念碑を探しに行った。公園に入りざっと見渡すと、ちいさい秋のハゼノキは見当たらなかったが、早くもモミジが紅く染まっていた。二つ目の橋を渡って直ぐ右手に黒いピアノ型の碑を見つけた。「ちいさい秋みつけた」の投稿を見た知人が、ここにこんな記念碑があるよと教えてくれたのがちょうど1年前。以来気に懸かっていた碑に漸くめぐり合えたのだ。
この日、井の頭公園のそこかしこで宙に舞う小さな白い虫を見た。雪虫だ。東京でこんなに沢山の雪虫を見たのは初めてのこと。間もなく東京にも雪が降るのだろうか?
(2023年11月29日)
後楽園のちいさな秋 [巷のいのち]
後楽園のちいさな秋
一昨日後楽園へちいさな秋を探しに行った。地下鉄の後楽園駅を上がるとすぐ左の礫川公園に、今からは68年前サトウハチローに童謡『ちいさい秋みつけた』を作詞させたハゼノキが移植されている。往時は小さかったハゼノキも、70年も経ってはさすがにでかい。紅葉の具合如何かと覗き見ると、「童謡『ちいさい秋みつけた』とはぜの木」の看板の奥に垂れ下がる枝葉の2割ほどが赤みを帯びていた。
礫川公園から後楽園ドームをぐるりと廻って、反対側の小石川後楽園の門を潜り、ここにもあるはずの櫨を探す。池辺のその木は大きいが、葉っぱは緑るいままである。櫨の葉は、他に先駆け染まりかけても、その後の歩みは実にのろく、やがて追いつく錦秋に紛れ込んでゆく。小川の畔にひともとの若いハゼノキ。こっちはもう紅に燃えていた。見つけたのだ、ちいさい秋を。
昨日投稿した『日本を危機に陥れる黒幕の正体』の感想文に付け加えたいことがある。対談者の馬渕睦夫(もとウクライナ大使)と松田 学(参政党、もと大蔵官僚)が異口同音、国を憂えて言うには:
「ネオコンは米国の政治を牛耳るばかりか、ずっと前からマスコミを通じて日本の世論に働き掛け、日本が再起せぬよう手練手管を尽くしている。例えば、韓国に反日教育を植え込んだのも米国であれば、日本政府の中枢たる大蔵省の弱体化を図り、日本のマスコミを誘導して「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」で大蔵省を叩き、ついには2001年に財務省と金融庁に分割させた背景にもネオコンの意図が働いていた模様。また、食料の自給こそ1国の独立にとって最も肝要で、他の主要国に100%の自給率が多い中、日本は僅か28%。これは、日本を自立させないという終戦以来の米国の対日政策が背景にある」。
いやあ、いくら何でもという話しばかりで、ただ恐れ入るばかり。ただ、もし本当だったら大変だ、とも思う。人生既にたそがれ果ててはいるけれど、今からでも老眼擦り、耳の穴かっぽじって見聞きしようか、無理かなあ?
(2023年11月11日)
ちいさい秋みつけた(アメリカの根源的大罪その2) [巷のいのち]
ちいさい秋みつけた(アメリカの根源的大罪その2)
一昨日久し振りに六義園(徳川時代江戸2大庭園の一つ)の門を潜ったのは、ちいさい秋が気になったからである。中学の同級生が僕がフェイスブックに投稿したハゼノキの紅葉の写真を見て、コメントで教えてくれた、童謡「ちいさい秋みつけた」の秋がハゼノキの紅葉であることを。その彼が異界へ旅立った3年前の頃から、秋になると櫨の木のことが気に懸かるようになった。
六義園のハゼノキはざっと十数本、都内の庭園では恐らく最も多いのではないか。一月前に来たときは、そのうちの1本だけ、それも一枝か二枝の僅か二、三葉に紅が差し始めていたのだが、この日はハゼノキ全体の6~7割に秋が進んでいた。
先日読んだ『日本よ、歴とした独立国になれ!』には本当に驚かされた。大事なことの筈なのに、我が知識から抜け落ちていたことが続出。例えば、
□米英の誤算: 米国政府はそもそも戦う相手を間違えた。ルーズベルトはなぜか共産主義国家に親近感を寄せ、ソ連と組んで日独を攻めたのみならず、中国では毛沢東の中共軍とも通じて、戦後は蒋介石の国府軍を蔑ろにしたため、国共内戦結果、中華民国は台湾に閉じ込められ、本土が人民共和国に支配され今に至る。
□日米開戦: 遠い欧州の第1次世界大戦で40万人ものアメリカ兵を失ったアメリカには、再びの第2次大戦には参戦すべきでないという強い世論があったにも拘らず、日本による真珠湾攻撃を受けると一転、リメンバー・パールハーバーとなった。だが真珠湾の12日前に、米国政府が最後通牒(ハル・ノート)を日本に突き付けていたことは議会にも国民にも秘匿されていた。ルーズベルト政府は国民を欺いて日米戦争を産み、ひいては欧州の戦争に参戦したのだった。
□大統領の評価: 本書が、ヒトラーのドイツをしてポーランド侵攻に導き、かつ日米戦争を仕組んだ根源的大罪人として断罪するフランクリン・ルーズベルトは、しかしアメリカの歴代大統領の人気投票では未だに、ワシントン、リンカーンと共にトップ・スリーを占めるという。世評は、げに不思議なものだ。
一昨日の六義園は初めて見る風景だった。そこかしこに見える紅葉は例外なくハゼノキだ。公園全体が秋に燃えるのは半月以上も先のこと、それまでは「ちいさい秋」のひとり舞台。
(2023年11月6日)
地球が段々虚ろに見えて [巷のいのち]
地球が段々虚ろに見えて
先月79歳を迎えた。それを昔の人は傘寿と言った。その日は、しかし欧米風でも古式にも沿わない我が家では、普段通りに過ぎて行った。この3年半、数えてみれば人様との付き合いが激減して久しい。それをコロナのせいにしていたけれど、最近になって漸く気が付いた、齢を取るとはそういう事なんだと。
人様との交流が絶えるにつれ、ふと出遭う花鳥虫けらの類いに目が行くようになった。例えば7月の真夏日、足元を這う芋虫に気が付いた。黒い体に赤い縦の線が走り、その両側に赤いトゲ状の物が一杯生えている。スマホに収め、グーグルに問うと褄黒豹紋という答え。調べて驚いた、去年のちょうど今頃、黄花コスモスの蜜にしゃぶり付く綺麗な蝶を撮っていた。それこそ成虫の褄黒豹紋だったのだ。
例えば先の9月末、もこもこと肉付きの良いのが這っていた。黒地に黄色の横線をいくつも巻いた芋虫は、グーグルの判定では背筋雀。成虫になった姿をネットで探したら、褐色の翅に黒い縦縞が走る、これもなかなか美形、但しそれは蛾であった。
ところで我が半生は酒にまみれ、独り酒に酔い痴れることさえあったけれど、それも絶えて久しく、外食に出ることさえ稀になった。先日は六義園にちいさい秋を探しに行ったその帰り、久し振りにラーメン食わんと立ち寄った月山亭が無くなっていた。おまけに近年では一度だけ独り酒を愉しんだ、もつ焼きの新潟屋に休業の看板が掛かって週が過ぎた。知り人との出会いが絶え、馴染みの店も次から次へと消えて行く。地球が、なんだか段々虚ろに、虚ろに見えてくる。
(2023年10月11日)
秋立ちぬ [巷のいのち]
秋立ちぬ
今年立秋は暦の上では8月8日。その頃はしかしとんでもない真夏日、漸く10月に入って秋の気配を感じ始めた。途端にまたぞろ、「ちいさい秋みつけた」のことが気になって、久し振りに電車に乗って駒込の六義園を訪れた。しかし東京の秋には2カ月も早い今頃、錦秋は影も形も無く、目に付くのはうな垂れた池辺のススキ・・・・と思ったその先のハゼノキの枝先に、ありました、ちいさい秋が。
サトウハチロー作詞のこの歌が世に出たのは70年近くも前のこと。初めて聴いたのは64年前、中学生の時だった。そして全校生徒の前でそれを独唱した親友は、ちょうど3年前の今頃、永久の旅に出た。ハゼノキは枝先ごと、葉っぱごと、少しずつ少しずつ赤らんで、最後は他の樹の紅葉に交じり合う。今年もだから、何度か逢いに来よう、歌を口ずさみ、友を思い出すために。
六義園を出て本郷通りを駅に向かう途中にある町中華「月山亭」で昼飯を食おうと思って寄ると、扉に張り紙がしてあった、「テナント募集」。思わず、心が呟いた、「ブルータス、お前もか」。
(2023年10月10日)
曼殊沙華 [巷のいのち]
曼殊沙華
去年の今日、「秋立ちぬ」と題してアパートの庭に咲き始めた彼岸花、またの名曼殊沙華を紹介した。そのことを思い出し、玄関を出てアプローチの敷石を進みつつふと足元を見て歩を止めた。殆ど透明な羽根に淡い空色の胴体、子供の頃よく見かけた塩辛蜻蛉だ。そいつを避けて廻って庭に踏み入ると、嗚呼、今年も秋を先駆ける赤い蕾の、中には待ち切れず赤い花、白い花を開いて、四囲に雄しべ雌しべをいっぱい差し伸べた曼殊沙華。日中の外気は未だ30度を超えるのに塩辛蜻蛉に曼殊沙華はどこか秋の気配・・・と思って帰って早速報告すると、彼岸花ねえ、墓場の花なのにわざわざ庭に植えるなんて、と女房殿はにべもない。
その時何故か思い出した。数年前、女房と二人埼玉県の飯能の奥へ彼岸花を観に行った。西武池袋線を高麗駅で降りて、歩いた先の巾着田、何とそこには500万本の曼殊沙華が咲き乱れていた。ネットを見ると今年も今は、曼殊沙華祭りの真最中。数年ぶりにそろそろ訪ねてみるかと思いつつ日記を紐解くと、彼の日は2014年9月23日(秋分の日)。げっ!もうひと昔も前のことだった。
(2023年9月21日)