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母の影(その3) [読後感想文]

母の影(その3)

 

 北 杜夫(もりお)の描く母・輝子(てるこ)(夫は歌人の斎藤茂吉)は派手で、活発で、短気で・・・これを人は「猛女」と呼び、晩年になると近所では「痛快婆さま」と呼んだらしい。杜夫自身文中「父は悪妻を迎えた」とまで言っている。

 輝子の父・斎藤紀一は東京は青山にある脳病院の院長で帝国国会議員というから、輝子は上流社会で我儘一杯に育ったはずだが、意外とケチな面もあり、トイレットペーパーの代わりに和紙を揉んで代用、人にもそれを強いたという。

 杜夫がものごころ付いた頃、母はすでに家にはいなかった。父に勘当され、12年もの間戻らなかった。それはある事件のせいだった。昭和8年、新聞が「ダンスホール事件」を大々的に書き立てたが、それは警視庁が有名なダンスホールのハンサムなダンス教師(複数)を逮捕した事件で、罪名は上流階級の有閑マダムとの不倫、証人喚問された被害女性の名前が紙上に公表されると、そこに輝子の名前があった。

 英雄と猛女ではどうも肌合いが違ったようだ。それでも晩年の茂吉が病に倒れ、寝たきりになった時、輝子はまるで人が変わったように夫のそばを離れず、必死に介抱したそうだ。もしかすると、相手が元気なうちは敢えて干渉を控えていたのか。

 もともと旅行好きな輝子とて、茂吉と幽明境を異にした後は天衣無縫に旅を楽しみ、国内は300ヶ所以上を、海外は65歳からの20年間で108ヶ国を廻った(79歳で南極大陸に上陸、81歳ではヒマラヤ山麓を踏んでいる)。大分の湯布院温泉が最後の旅だった。その年に病を得て、半年後の1984年(昭和59年)89歳で幽界に旅立った。

 その7年後、北 杜夫は母の(つい)の宿(湯布院の玉の湯)に泊まる。そして『母の影』は、その夜彼が詠んだ次の歌で締め括られている。

さ庭べに かわづが鳴きて 亡き母の つひの宿りの 夜ぞ更けまさる。

20221011日)

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