上月さんを偲ぶ会2024


 


 今日、明治神宮そばの代々木倶楽部で昼の宴があった。宴の名は、上月(こうづき)さんを偲ぶ会。上月さんというのは、僕の商社時代ソ連貿易大先輩の上月豊汎(とよひろ)さん。大正13年生まれだから親子ほども齢が違うのに拘らず、そんな先輩風を些かも吹かせることのなかった稀有な人、というかむしろ思い起こせば、あれは新橋のガード下や新宿西口のゴールデン街、飲み屋の暖簾を真っ先に潜り、その背中を追ったのが僕らだった。その先輩が退職され、そして亡くなられたと聞いたのは今頃の寒い時期、ちょうど20年前のことだった(没年80歳)。


 ソ連貿易と言っても、上月さんが終始勤しまれたのは日本の鉄鋼業界向けソ連炭の輸入であった。その同じ業界で上月さんと長年に亘り苦楽を共にされた方より、上月さんを偲ぶ会に誘われたのが、没後10年の2014年のことだった。以来10年の間に4回開催、人数は4~5名。そしてコロナ猖獗の4年を経た久し振りの今日、集まったのは上月さんの部下だった3名に上月さんの息子さんを加えた4人。上月ジュニアは、8年に亘るロシア大使の重責を終え昨年末に帰国されたばかりであった。


 真昼の宴はあっという間の2時間、上月さんの思い出話に花が咲いた。今じゃ山形に住み参加が叶わなかった同僚からのメッセージ(上月さんとはシベリアのコトラスで1カ月ホテルの1室で同衾)が紹介されると、その彼からいつか聞いた話し(上月さんが夜中に何度もうなされていたのは、ソ連に抑留されていた頃の生活を思い出したからだということ)を披露したのは僕だった。


 席上、僕は詫びた、この会のことをフェイスブックとブログで勝手にばらした上、無断で証拠写真を世にばら撒いたことを。しかし幾ばくかの人からは反応があって、例えば加藤幹雄さん(住金もと副社長、現・京都ロシア料理店「キエフ」会長)からは、上月さんにはソ連商談でいたくお世話になったこと。また、昼間裕治さん(IHI初代モスクワ事務所長、もとIHI副社長)曰く、上月さんはダンディーさで群を抜いておられたと。


 そして、これを書きながらふと思う。偲ばれる人が亡くなったのは80歳。その息子さんは別として、偲ぶ方の僕は79歳、そして主催の人が丁度80で、もう一人はなんと82歳で上月さんを越えている。その82歳の、来年もまた呼んでねと、別れ際にのたまわった言葉が心に残る。



【追記】下の写真の真ん中が上月さん。場所は多分モスクワ郊外。時は、おそらく40年ほど前だろう。



2024120日)