ふるなじみ(その2)


 ロシア語は、80年近い我が人生では『ふるなじみ』と呼んでも、目くじら立てる人はいないと思う。大学で専攻したのがロシア語だし、商社に勤めた33年の大半はロシア貿易に携わり、現地にも11年以上駐在した。惜しむらくはその間、ロシア語で書かれた本1冊だに親しまなかったことである。そして56歳で総合商社を辞め、ステンレス・チタンの国内専門商社に移籍した時は、これでロシア語との縁は完全に切れたと思い込んだ。ところがその第2の職場を70歳まじかで追い出された時、ハローワーク経由でありついた職場が霞が関の官公庁の、ロシア語必須の職種だった。


 てな塩梅で実に14年振りでロシア語のお世話になった次第だが、このたびは何故かアカデミックな気分になって、ロシアの小説を原語で読み始めた。手始めに、通勤電車でも読めるように電子辞書と電子書籍を求め、5年かけてスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ著『チェルノブイリの祈り』やセルゲイ・ドヴラートフの『わが家の人々』等5冊を読んだ。


 だがその職場も75歳のとき追い出され、折からコロナが蔓延(はびこ)り出して家に籠る日が続くうち突然のように、遥か昔の学生時代に買ったまま殆ど手を付けていないドストエフスキーの『罪と罰』を思い出した。すると、それを読まぬうちに果てるわけにはいかないような強迫観念めいたものに襲われ、つい原語の電子書籍を購入していた。



 以来3年以上、『罪と罰』と格闘しているが、ドストエフスキーは現代の作家に比べ著しく難解である。他の本を読む合い間に時々手を出すという半端な読み方にもよるが、漸く全体の2割近辺に来たところで、残された時間が気になり始めた。さても思案のしどころか?



(2024年4月13日)